2022年高 知

高知城〜板垣退助先生像〜
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丸ノ内緑地の入口から見た高知城


追手門


天守を背景にした板垣退助先生像


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板垣退助先生像


 大正12年(1923年)12月5日、初代板垣退助先生像除幕。本山白雲製作。

 昭和18年(1943年)9月2日、壮行式が行われ、金属回収のため供出

 昭和31年(1956年)5月11日、再建除幕。題字は吉田茂の書。

後ろ姿


楠正興尚徳の碑


 医師楠正興。先祖はその昔芸郡に下った楠正成の會孫正盛を祖とし、町氏と称して長岡郡久礼田村(南国市)で医を業とした。

 正興は日野・華岡の二氏に学び、更に西洋医術に基づく内科・産科医の奥義を究めて帰国したので、治療を乞う者はその門に満ちたと伝える。

 十五代藩主山内容堂公の侍医に迎えられ、士席に編入された。明治元年(1868年)容堂公が大病にかかった時、一身を賭けて治療にあたり、治癒させたので、容堂公の信頼厚く常に随従した。在職数年で土佐に帰り、故郷で診療、のち追手筋に楠病院を開業した。親切に患者に接して親のごとく慕われ、後進の指導にも熱心に取り組み、門下生は270人にも及んだ。

 明治20年(1887年)7月17日没。59歳。この碑は明治22年、薫陶を受けた門人53人によって建立された。

 撰文奥宮禮、題額谷干城、書細川潤次郎である。

天守を見上げる。


二ノ丸

 本丸の北、三ノ丸の西上方に位置するこの二ノ丸は、三ノ丸より約8m高く、標高約40m、外輪の長さ270m、総面積4,128uの台地である。ここに建てられていた二ノ丸御殿は、政務をとる表御殿と藩主が日常の生活をする奥御殿が連続して建てられており、一部2階建てになっていた。総面積は1,233uもあった。明治6年(1873年)公園化にともなってすべての建物は撤去されたが、現在残る築山は、奥御殿の上段の間に藩主が着座したとき、正面に見える位置にあたっている。

 二ノ丸にはこのほか目付役所やスキヤ櫓、家具櫓、長局などの建物があった。特に西北隅にあった二ノ丸乾櫓は、城内にあった8棟の櫓の内では唯一3階建てで、2階と3階の屋根には飾りの千鳥破風を配し、小天守のようであった。

 北側の一段下がったところに水の手門があり、綿蔵・綿蔵門を経て城八幡方面や北門の方に通じていた。

天守と廊下門


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