2006年茨 城

野口雨情記念館〜「波浮の港」のエピソード〜
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常磐自動車道中郷SAから北茨城ICを出て、野口雨情記念館(HP)へ。


野口雨情記念館


野口雨情の像


野口雨情の歌碑


かもめ

かもめ飛んだ飛んだ かもめが飛んだ
一羽おくれて あとから飛んだ
海は遠いし 渚は長し

「かもめ」は知らなかった。

この曲は雨情先生の詩に作曲した「かもめ」というわたしの作品です。

いま雨情先生の歌碑を書く幸運にめぐまれたことを泌々と感じています。

昭和56年1月

高木東六しるす

 明治37年(1904年)、高木東六は米子市に生まれる。神父の父の影響で幼少時代から聖歌に親しみ、2人の姉からオルガンと教会音楽を学ぶ。大正13年(1924年)に東京音楽学校に入学するが、昭和3年(1928年)に中退。翌年パリ国立音楽院に入学。

高木東六も知らなかった。

磯原小唄


磯原小唄

天妃山から ハ 東をネ
東を見れば テモヤレコラサ
見えはしないが 見えたなら
あれはアメリカ チョイト 合衆国

野口雨情詩 藤井清水曲 高木東六書

「磯原小唄」も知らない。藤井清水も有名な作曲家らしいが、知らない。

世の中には知らないことが多いものだ。

野口雨情の年譜

 明治15年(1882年)5月29日、茨城県多賀郡磯原村(現北茨城市磯原町)に父量平、母てるの長男として生まれる。本名は英吉。生家は「磯原御殿」とも言われた名家。

野口雨情の生家


 明治34年(1901年)4月、東京専門学校高等予科文学科(現早稲田大学)に入学するが、1年余で中退。

 明治37年(1904年)1月、父死去。帰郷して家督を相続する。11月、栃木県喜連川の高塩家の娘ひろと結婚。

 明治41年(1908年)、長女みどり出生(8日後死去)。

 明治40年(1907年)7月、新聞記者として北海道へ渡り、札幌の「北鳴新報社」入社。石川啄木と知友となる。

石川啄木


 明治41年(1908年)3月、長女みどり出生(8日後死去)。

 明治42年(1909年)11月、北海道を離れ、帰郷。上京する。

 大正4年(1915年)5月、妻ひろと協議離婚。

 大正7年(1918年)、中里つると再婚。

「波浮の港」のエピソードが書いてあった。

 大正13年の半ばごろ、中山晋平が雨情を訪れました。「作曲したいが何かいい詩はないか」ということでした。注文原稿に忙しく作品の持ちあわせがなかったので、つる婦人が、たまたま「波浮の港」が掲載されている雑誌を見せたところ、晋平はたいへん気に入り作曲したのでした。

 この歌が空前の大ヒットとなり、レコードが売れに売れるといくつかの問題が出て来ました。「波浮の港は夕焼けになるはずがない」「鵜の鳥は大島に棲んではいない」等ということが言われだしたのです。

 多忙だった雨情は、現地に行かず港の写真を見ただけで作詞したのでした。『失敗でヤンした。実は平潟港をモデルしたもんでヤンすから』といって苦笑したとのことです。

 故郷をこよなく愛した雨情。平潟港(北茨木市)は郷里に近く、港の地形が波浮の港に似ているところから雨情の脳裏に浮かんできたのでしょう。平潟港や周辺の海では、鵜の鳥は何時でも見ることができますが、大島にはいない鵜を持ち出したのは大きな失敗だったのです。

 名曲「波浮の港」によって、小さな漁港だった波浮の港は有名になり、多くの観光客が訪れるようになりました。

野口雨情は「波浮の港」に行っていなかったのだ。

野口雨情の生家へ。

2006年茨 城