2006年茨 城

大儀寺〜佛頂禅師〜
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鉾田市阿玉に大儀寺という寺がある。


大儀寺山門


宝光山大儀寺境内

創建由来

 慶長年間(1596〜1615)授翁宗弼の法子華蔵曇下和尚が、阿玉の地に隠栖して草庵を建て、元和2年(1616年)8月に遷化された。同年阿玉の領主荒野右京進大義居士入庵し、梅易陽和尚を拝請して法花山大儀庵とし、以後六代を経た。

 貞享元年(1684年)佛頂河南大禅師が鹿島の根本寺を辞して入庵し諸堂を建立、宝光山大儀寺として中興開山となる。

 正徳2年(1712年)大火焼失。同3年、佛頂再建す。

 御本尊聖観音菩薩像は、稲葉丹後守の御公母の年持佛で、佛頂禅師に寄進されたもので、定朝の作と伝えられる。

 幕末の外交家で浦賀奉行・長崎奉行・勘定奉行を歴任した水野筑後守忠徳公の墓地、過去帳、位牌等がある。

 佛頂禅師は俳人松尾芭蕉の禅の師として有名である。

 貞亨4年、芭蕉が禅師を訪ねた時の『鹿島紀行』には次の句が記されている。

寺にねてまこと顔なる月見哉
   桃青

をりをりに変らぬ空の月影も

   ちゞのながめは雲の間に間に
   佛頂

 昭和55年12月6日 境内全域 大洋村指定文化財(名勝)となる。

   平成元年3月

鉾田市教育委員会

 寛永19年(1642年)2月18日、佛頂禅師は札村に生まれる。

 正徳5年(1715年)12月、74歳で没。

 明治22年(1889年)4月1日、札村は江川村・中居村・飯島村・上幡木村・上沢村・大蔵村・阿玉村と合併し、鹿島郡白鳥村となる。

 昭和30年(1955年)3月3日、白鳥村と上島村が合併し大洋村発足。

 平成17年(2005年)10月11日、大洋村は旭村・鉾田町と合併し、鉾田市になった。

山門の手前に「佛頂塔」がある。


曽良宗波の句碑もあった。


茨城の自然百選地
   大儀寺境内「俳句の里」

雨にねて竹起かえる月見かな
   曽良

月さびし堂の軒端の雨しずく
   宗波

平成6年(1994年)4月、建立。

大儀寺本堂


臨済宗妙心寺派の寺である。

本堂の手前左手に仏頂禅師像がある。


平成14年(2002年)8月、建立。

芭蕉の句碑もあった。


寺に寐てまこと顔なる月見哉

碑陰に佛頂和尚の歌が刻まれている。

折り折りに変らぬ空の月かけも

   ちゞのなかめハ雲のまにまに

 貞享4年8月14日、芭蕉は根本寺二十一世住職佛頂禅師に会うため門人曽良と宗波を伴って根本寺についた。月見のためである。 しかし芭蕉の「鹿島詣」によれば「ひるより雨しきりに降りて月見るべくもあらず。ふもとに根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて此の所におはしけるといふを聞きて尋ね入りて臥しぬ」とある。なほ佛頂筆の自伝「山庵記」によると「貞享元年より同4年末まで阿玉の大儀寺の住職となる。のち再び江戸深川の臨川寺に入った」とあり、芭蕉一行と佛頂和尚との月見は大儀寺であることが立証されている。

昭和51年(1976年)3月7日、大儀寺十四世山上宗俊・大儀寺総代会建立。

昭和55年(1980年)6月23日、金子兜太は大儀寺を訪れている。

 潮来、水車亭。午前、芭蕉と仏頂和尚、松江の関係する遺跡を、竹童さんの案内で見せてもらう。松江居(本間自準亭跡)、長勝寺、根本寺、仏頂生家、大儀寺とまわる。

 竹童氏『鹿島紀行』の芭蕉の月見は根本寺でなく大儀寺であったと、事実をあげた力説。とくに大儀寺で発見された寺田記は有力な証拠で、場所といい、信用できる。まてば椎、栃の木、あり。午後、二句句会。

『金子兜太戦後俳句日記』

鹿島の根本寺から阿玉の大儀寺は遠すぎると思う。

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