芭蕉ゆかりの地


〜臨川寺〜

採荼庵跡から清澄庭園に沿って清澄通りを戻る。

清澄庭園にも芭蕉の句碑があるが、また別の機会に。

清洲橋通り沿いに臨川寺がある。


承応2年(1653年)、冷山和尚が結んだ深川大工町の臨川庵である。

延宝8年(1680年)の冬、芭蕉は江戸市中から深川の草庵に移る。


 そのころ仏頂禅師は鹿島神社との係争で江戸に出て臨川庵に仮住まいをしていた。芭蕉は臨川庵に参禅する日々を送った。

臨川寺の境内に「芭蕉由緒の碑」と「墨直しの碑」がある。

芭蕉由緒の碑


 抑(そもそも)此臨川寺は、むかし仏頂禅師東都に錫をとどめ給ひし旧地也。その頃ばせを翁深川に世を遁れて、朝暮に来往ありし参禅の道場也とぞ。

墨直しの碑


 延享の頃(1744〜47)、江戸小石川の神谷玄武坊白山が洛東雙林寺の鑑塔を模して建立。

昭和37年(1962年)、再建。

深川海辺大工町黄檗瑞甕山臨川寺 境内

 此寺仏頂禅師の開基則故翁発心の地也

洛東双林寺仮名の碑の写并鑑塔写

寛政 年白山下門人建之毎年三月十二日墨直しの式あり

墨直塚
東武仮名碑

我師は伊賀の国に生れて承応の頃より藤堂の家につかふ。其先は桃地の党とかや、今の氏は松尾なりけり。年また四十の老をまたす武陵の深川に世をのかれて、世に芭蕉庵の翁とは人のもてはやしたる名なるへし。 道はつとめて今日の変化を知り、俳諧に遊ひて行脚の便を求むといふへし。 されは松島は明ほのゝ花に笑ひ、象潟は夕の雨に泣と、こそ富士吉野の名に対して、吾に一字の作なしとは古をはゝかり、今を教るの辞にて漂泊。すてに廿とせの秋のくれて、難波の浦に世を見果けむ、其頃は神無月中の二日なりけり。さるを湖水のほとりに其跡魂をとゝめて、彼木曽寺の苔の下に千載の名は朽さらまし。東花坊爰に此碑を作る事は、頓阿ノ西行に法縁をむすひて道に七字のこゝろを伝ふへきと也。


 正徳3年(1713年)、臨川庵は「臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺」の山号寺号が許可された。

臨川寺の本堂に芭蕉像があったが、撮影禁止。

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