芭蕉の句碑茨 城


月はやし梢ハ雨を持ながら

鹿島神宮から根本寺へ。


瑞甕山根本寺


臨済宗妙心寺派の寺である。

推古天皇の21年(613年)、聖徳太子によって建立された勅願寺だそうだ。

鹿島神宮と違って、誰もいない。

山門を入ると、左手に芭蕉の句碑があった。


寺に寐てまこと顔なる月見哉

平成7年(1995年)12月、句碑建立。

貞亨4年(1687年)8月15日、芭蕉は根本寺の佛頂和尚を訪れた。

 ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此所におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ。すこぶる人をして深省を發せしむと吟じけむ、しばらく清浄の心をうるにゝたり。

 あかつきのそら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出ぬ。月のひかり、雨の音、たヾあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月みにきたるかひなきこそ、ほゐなきわざなれ。かの何がしの女すら、郭公の歌得よまでかへりわづらひしも、我ためにはよき荷憺の人ならむかし。

をりをりにかはらぬ空の月かげも

   ちヾのながめは雲のまにまに
   和尚

月はやし梢は雨を持ながら
   同

寺に寝てまこと顔なる月見哉
   同


 「根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此所におはしける」のは鉾田市阿玉の大儀寺であるともいう。

根本寺本堂


岡村不卜も鹿島に詣でている。

同游とかしまに詣ける比、海の日の波を離出るに、「武蔵野の月といづれかさきにせん」といひて

松陰や旭見に行春の海
   不卜


 享保元年(1718年)8月16日、田中千梅は根本寺に参詣している。

夕日紅葉を輝し木陰冷気なれは十六夜まち出むと磯辺の旅館に帰道の序おものいみの御社根本寺に詣


 宝暦3年(1753年)、横田柳几は根本寺を訪ねた。

御物忌の境内を過て麓に根本寺を尋ぬ。かの蕉翁月見の別院は北寺といふ。今は堂守の住荒して猶哀ふかし。


本堂の右にも芭蕉の句碑があった。


月はやし梢ハ雨を持ながら

宝暦8年(1758年)9月、建立。

『諸国翁墳記』に「月 塚 常陸鹿島根本寺アリ 南湖連中建立」とある。

茨城県最古の芭蕉句碑である。

ちなみに2番目に古い句碑は鹿島神宮にある。

「南湖連」は支考を祖とする美濃派に属するそうだ。

 安永7年(1778年)8月17日、横田柳几は再び根本寺を訪れ、芭蕉の句碑を見ている。

凡是迄二十丁程それより御ものいみの宮へ参詣し根本寺翁の碑を拝して客舎に帰る


 元治元年(1864年)、根本寺は天狗党浪士のために焼却された。

 明治39年(1906年)9月1日、河東碧梧桐は根本寺に立ち寄り、芭蕉の句碑を見ている。

 去る一日鹿島から大船津へ来た時、だらだら坂を下ると、右側の田と畑の中に、何の囲いも門も塀もなく、藁葺の荒れた堂が兀然と立っておる。それと黍の穂を隔てて、これも荒れた家が一軒あった。ありふれた辻堂位に見て通りかかると、香墨君が根本寺だという。これがと反問する。根本寺に相違ないという。下りて見ると「月はやし梢は雨」の句碑がある。


昭和56年(1981年)7月、本堂落慶。

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