2006年茨 城

長禅寺〜小林一茶の句碑〜
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 常磐自動車道谷和原ICから国道294号に入り、関東鉄道沿いに取手に向かう。

 国道6号(水戸街道)を越えると、JR常磐線取手駅のすぐ南の高台に長禅寺がある。


大鹿山長禅寺


長禅寺の由来

 創建は平将門と伝えられており、境内には市指定文化財の三世堂をはじめ数々の堂宇や小林一茶句碑、小川芋銭景幕の碑、開闡郷土碑などがある。また新四国相馬霊場八十八ヶ所の総本山で、一番、五番、八十八番の札所でもある。

 長禅寺下の「取手ゆかりの人びと」の看板に小林一茶を始め、正岡子規、沢近嶺、小川芋銭、高村光太郎等が紹介されていた。

長禅寺略記

 長禅寺は大鹿山長禅寺と号し、臨済宗妙心寺派の古刹で、京都の妙心寺の末寺です。本尊は延命地蔵尊です。

 縁起によれば、朱雀天皇の代の承平元年(931年)に平将門が勅願所として創建したと伝えられています。将門没後は「御厨三郎吉秀」という人物が秘かに本尊を守り伝えてきたものの荒廃が甚だしかったといわれています。承久元年(1219年)には義門和尚を開祖として再興が計られ、また「吉秀29代後胤織部時平」は、文暦元年(1234年)に将門の守本尊で安阿弥(快慶)の作とされる十一面観音像を安置するために「四間四面御堂」を建立するとともに、寺の再興を計ったとも伝えられています。

 創建当時は旧大鹿村(現在の白山地区、取手競輪場近く)にありましたが、江戸時代初めに水戸街道が整備されて取手宿が形成されると当地に移転しました。慶安2年(1649年)に三代将軍徳川家光から朱印地5石3斗を賜って以来、代々の徳川将軍から朱印地を賜っています。

水戸街道を地元では陸前浜街道と言うそうだ。

取手宿といえば「一本刀土俵入り」の舞台。

正岡子規


 川を渡れば取手とて今迄にては一番繁華なる町なり 處々に西洋風の家をも見受けたり このへんより少しづゝ足の疲れを覺ゆ 多駄八の足元を見るによろよろとしてたしかならず兎角おくれ勝なり 野中に1株の梅花眞盛りにてまだ散りも始めぬをこゝらあたりは春も遅かりけりと烟草を出して吸いながら彳む

正岡子規「水戸紀行」

 また、長禅寺は観覚光音禅師(かんがくこうおんぜんじ)が開基した新四国相馬霊場八十八ヶ所(現在の取手市・我孫子市・柏市にまたがる札所)の発願・結願寺でもありきす。弘法大師の縁日(毎月21日)には、大師講の信者を中心に多くの参詣人で賑わっております。

 利根川に面した高台に位置する長禅寺は、風光明媚なところで、取手八景や茨城百景のひとつにも数えられて、昔から地域の人々に愛され親しまれているところであります。この他に小林一茶の句碑や小川芋銭(うせん)の碑、開闡(かいせん)郷土碑、とりで七福神の大黒天などがあります。ぜひ探索してもてはいかがでしょうか。

長禅寺を探索してみる。

三世堂


三世堂の右手に小川芋銭先生景慕碑があった。


高村光太郎の筆だそうだ。

高村光太郎は近代における名筆家としても知られている。

花巻の「雨ニモマケズ」詩碑も高村光太郎の揮毫である。

高村光太郎の筆であっても、何と書いてあるのか、分からない。

そこで取手市教育委員会に問い合わせてみた。

小川芋銭先生景慕之碑

不執形図直入神   欽翁此意得尤親

雲山風月収襟裏   任手拈来一々真

妙心寺管長大休老師の七言絶句である。

 碑は大理石で、昭和14年5月17日、長禅寺芋銭観音会によって建てられたもの。

三世堂左手の大黒天の脇に小林一茶の句碑があった。


下総の四国廻りや閑古鳥

うっかりすると、見過ごしてしまう。

下総の四国巡りやかんこ鳥

『七番日記』(文化7年4月)

かんこ鳥はカッコウの別名。夏の季語。

芭蕉の句に「うき我をさびしがらせよかんこ鳥」がある。

文化14年(1817年)2月10日、鶴老上人と大鹿村で別れ、布川に行く。

   十 晴 鶴老上人ト大鹿村ニシテ別レ、布川ニ入。

『七番日記』(文化14年2月)

これが鶴老上人と今生の別れとなった。

鹿島神宮へ。

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