松島での芭蕉祭もすんで秋元不死男君と袂をわかち、遠藤梧逸君の東導を乞うて「奥の細道」の最も難路と記された山刀伐峠を目ざした。赤倉ホテルを宿にして落葉吹きとぶ前日と雪積む翌朝との二回、旅情を充足せしめる探勝ができた。
「炭竈翁の道の反れゆけり」。昔芭蕉が踏んだ草鞋の跡の小径と車の走る新しい道路とが交叉する。今日もなお山の深さにかわりがなく、雪に埋もれて炭やきの煙をただよわせ、掘立小屋にか細い生計を立てる山人がいるようすであった。勿論芭蕉の世に比ぶべくもなかろうが、私には寂寥に絶えない侘しさをおぼえた。峠の上に地蔵があった。消え残りの蝋燭をライターでふたたび灯し、旅のかりそめの供養をした。芭蕉と私との隔たった時間と、それをつなぐ伝統との因縁を、しずかに瞑想しないではすまなかった。
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山毛欅(ぶな)の原生林の道を行くと、峠の頂上には霧雨に霞んで「奥の細道顕彰碑」があった。
奥の細道顕彰碑

高山森々として一鳥聲きかず木の下闇茂りあひて夜行くがごとし雲端につちふる心地して篠の中踏別け別け水をわたり岩蹶きて肌につめたき汗を流して最上の庄に出づ
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昭和42年(1967年)11月、建立。加藤楸邨揮毫。 |
山刀伐の頂に「奥の細道」の碑が建てられ、頼まれて、
「高山森森として一鳥聲聴かず」云云七十余字を認めた、
碑の高さ約二米、鳥海山の石を曳いたものである。時、
十一月、直ちに碑は雪に埋れ、除幕の式は来春を待つこ
とになつた
山刀伐の深雪解けまで文字ねむれ
『吹越』 |
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昭和43年(1968年)6月18日、加藤楸邨も出席して除幕式が行われた。 |
昨秋、頂に標識がわりに「奥の細道」記念碑が建てられた。頼まれて「高山森々として」の一節を書いたが、鳥海山の石をこの頂に曳きあげるために、あたりの草や灌木が大分いたんで遺跡保存のために遺跡がいたんでしまうという皮肉な現象が起きた。峠の一隅にひっそりと建てられるように願ったのだが、多くの人々の善意がこういう形であらわれてしまったわけである。しかし土地の方々が今懸命に植樹と旧関保存とに苦心しているのでやがてその実を結ぶ日が来るにちがいない。今でも雪が消えるのを待ちかねるように咲きだす山一面の辛夷はこの山の魅力の一つである。
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山刀伐トンネル開通の10年前ということになる。
今では訪れる人も少ない。
尾花沢に向かってなだらかな坂道を下る途中、丘虎尾(おかとらのお)が咲いていた。

琵琶の沢温泉へ。
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