『奥の細道』東 北〜


〜十念寺〜

芭蕉の句碑

風流のはしめや奥の田うゑ唄

 NTT須賀川ビル前の相楽等躬宅跡・可伸庵跡から松明通りを行き、総合福祉センターの前で右に入ると、金徳寺の手前に十念寺があった。


来迎山十念寺


浄土宗の寺である。

十念寺(浄土宗)

 文禄元年(1592年)、善竜上人の開山である。芭蕉が「奥の細道」の旅で須賀川に滞在し、この寺に詣でたことで知られる。安政2年(1855年)、須賀川の女流俳人市原多代女によって「風流のはじめや奥の田植唄」の碑が建立されてある。

 また多代女の「終に行く道はいづこぞ花の雲」の辞世の碑もある。別院の成田山は節分の豆撒きには善男善女でにぎわう。

 なお、東京オリンピックでマラソン第3位となった円谷幸吉の墓がある。

須賀川市

 4月28日(陽暦6月15日)、芭蕉は須賀川を発つ予定であったが、延期。十念寺・諏訪明神ヘ参詣する。

 一 廿八日 発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来而延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行而及暮。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。

『曽良随行日記』

芭蕉の句碑があった。


風流のはしめや奥の田うゑ唄

 長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。 風流の初やおくの田植うた

相良等躬亭で巻かれた歌仙の発句である。

この句は『猿蓑』にも収録されている。

安政2年(1855年)3月、市原多代女建立。

『諸国翁墳記』に「田植塚 同國[陸奥]須賀川 同[晴霞多代女]建之」とある。

閨秀俳人市原多代女辞世の句


終に行く道はいづこぞ花の雲

嘉永6年(1853年)4月、建立。

 安永5年(1776年)頃須賀川に生まれ、夫没後俳諧を雨考・道彦乙二に学び、一具とも親交があった。48歳で江戸に遊び文人と交遊、その俳誌・句集・俳諧摺など460種に及び、閨秀俳人として全国に知られた。晴霞庵とも称した。慶応元年(1865年)没。

明治39年(1906年)10月16日、河東碧梧桐は須賀川の十念寺を訪れた。

 文化文政以後慶應元年まで達者であった多代女(年九十)はこの地の市原氏の寡婦であった。天保の千代女として聞えておる。その後は現にこの地に住しておってやはり市原氏を名乗っておる。当主某氏に会して多少の遺物等を見る。十数年前の大火に大方は散逸したとの事である。

 多代女の墓は十念寺にある。これにも詣る。途中其角の門人晋流の建てた時雨塚を見た。これは料理屋の庭の芝生の中にある。


安積山公園へ。

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