『奥の細道』〜東北〜
〜軒の栗庭園〜
可伸庵跡から軒の栗通りを行くと、軒の栗庭園があった。
奥の細道本町
元禄2年新暦の6月9日、芭蕉と曽良は等躬を訪ねて須賀川に入りました。
『奥の細道』の本文に「すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とヾめらる。」とあります。その等躬宅は、現NTT須賀川の付近にありました。
等躬は本名を相楽伊左衛門と言い、問屋の仕事をしながら、その商業活動のために江戸へ度々出かけていました。その間に江戸での俳諧活動も持たれ、芭蕉との関係が生まれました。等躬は奥州俳壇の宗匠としてその地位にあり、芭蕉に多くの情報を提供し、「みちのく歌枕の地」探訪の旅を助けました。
風流の初やおくの田植歌
| 翁
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覆盆子を折て我まうけ草
| 等躬
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水せきて昼寝の石やなおすらん
| 曾良
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ここ「軒の栗庭園」は等躬の住む本町に芭蕉が逗留し
世の人の見つけぬ花や軒の栗 芭蕉
十念寺に芭蕉の句碑がある。
長松院には相良等躬の句碑と墓がある。
桑門可伸の主は栗木の下に庵をむすべり
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隠家や目にたゝぬ花を軒の栗
| ばせを
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稀にほたるのとまる露艸
| 栗梁
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軒の栗庭園から松明通りを行くと、NTT須賀川ビルの前に相楽等躬宅跡・可伸庵跡があった。
相楽等躬宅跡・可伸庵跡
元禄2年(1689年)、俳聖・松尾芭蕉は門人曽良を伴い奥の細道の旅で須賀川に入り、4月22日(陽暦6月9日)から8日間滞在したのが相楽等躬宅(現NTT須賀川ビル)である。
等躬は、当時須賀川駅の駅長であり、俳人としても芭蕉と親交が深く、須賀川俳諧の宗匠であった。
芭蕉は、この一隅に大きな栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧・可伸に心ひかれ、可伸庵を訪れ「世の人の見付けぬ花や軒の栗」の名句を詠んでいる。
須賀川市教育委員会
元禄9年(1696年)7月、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途で須賀川に2泊し、等躬と両吟。
一とせ芭蕉、須ヶ川に宿して駅の労れを養ひ、田植歌の風流をのこす。与其跡を慕ひ、関越ルより例の相楽氏をたづね侍り。
踏込で清水に恥つ旅衣
| 桃隣
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章歌とはれてあぐむ早乙女
| 等躬
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鑓持のはねたる尻や笑ふらん
| 助叟
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須ヶ川に二宿、等躬と両吟一卷満ぬ。所の氏神諏訪宮へ参詣、須田市正(いちのかみ)秀陳饗応。
○文月に神慮諫ん硯ばこ
十念寺へ。
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