『奥の細道』東 北〜


〜神炊館神社〜

長松院から田善通りを歩き、神炊館(おたきや)神社(HP)へ。


奥の細道諏訪明神


総鎮守神炊館神社由緒

 主祭神は建美依米命(たけみよりめのみこと)。同命は成務天皇の御代に初代石背国国造として当地に赴任しました。着任するや、社壇を築き収穫された新穀を炊いで天神地祇に捧げて政治の成功を祈願しました。 社名はこの故事に由来しています。その場所(現西川茶畑町)は、「社壇様」と呼ばれましたが、後に社殿が築かれ「神炊館神社」と名づけられました。 後世当地を支配した二階堂氏は、城郭内に諏訪社を建立し建美名方命(たけみなかたのみこと)を勧請しましたが、落城後の慶長3年(1598年)に両神社を併せて新たに社殿を造営し、諏訪大明神と称しました。会津城主上杉景勝公の庇護を受けていましたが、北門の石鳥居は景勝公寄進のものであります。正徳2年(1712年)、正一位の神階の位を授けられ、「岩瀬総社諏訪大明神」を称し、末社は郡内80社に及びました。松尾芭蕉が『奥の細道』行脚の途次、当神社を参拝したのは、元禄2年4月28日でした。

 (『曽良随行日記』)

 明治11年、現在の社名に復称し、須賀川町の総鎮守となり、現在に至っています。

神炊館神社社務所

参道に石灯籠が続く。


道山草太郎の句碑があった。


秋風や一盞の酒にひびきあり

昭和51年(1976年)4月、桔槹吟社建立。

道山草太郎は道山壮山の孫。

「奥の細道碑」があった。


古人各自筆用翁之手跡ハ岩瀬郡須賀川諏訪之社

有写之各像ハ辰之浦翁古図ヲ写旧化書

   うらみせて涼しき瀧の心哉   桃青

「奥の細道碑」について

 『宗祇戻』(柿衛文庫蔵)は、宝暦4年(1754年)、白河の俳人和知風光が編集した俳句の本。挿図に松尾芭蕉の肖像と諏訪明神(神炊館神社)に奉納されていた芭蕉真筆の句として

   「うらみせて涼しき瀧の心哉」

に説明を加えて掲載しています。

 (この句は岩波版芭蕉俳句集)(492)、加藤楸邨『芭蕉全句』(525)に収録されています。

 『曽良随行日記』(天理大学図書館蔵)は、元禄2年(1689年)、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に随行した弟子の河合曽良が書きとめていた日記。須賀川には4月22日から29日まで滞在しました。碑に刻まれているのは、28日諏訪明神に参詣した時の一節です。

 廿八日 発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来而延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行而及暮。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。

 三基の石灯篭は、芭蕉が参詣した元禄年間に当神社に奉納されたものです。

総鎮守神炊館神社

 元禄2年4月26日、芭蕉は須賀川から江戸の杉山杉風に書簡を送付したが、その折、次の句を記す曽良の書簡が添付されているそうだ。

   日光うら見の瀧

ほとゝぎすへだつか瀧の裏表
   翁

うら見せて涼しき瀧の心哉
   曽良

神炊館神社本殿


 元禄9年(1696年)7月、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途で須賀川に2泊、諏訪明神へ参詣して句を詠んでいる。

 須ヶ川に二宿、等躬と両吟一卷満ぬ。所の氏神諏訪宮へ参詣、須田市正(いちのかみ)秀陳饗応。

   ○文月に神慮諫ん硯ばこ


諏訪神社近くに石井雨考が住んでいた。

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