小林一茶ゆかりの地



中山道坂本宿

上信越自動車道松井田妙義ICから県道51号松井田下仁田線で国道18号へ。

「碓氷峠鉄道文化むら」を過ぎて国道18号の旧道を行くと、中山道坂本宿がある。


坂本宿上木戸


「たかさごや」は小林一茶の定宿

一茶の定宿「たかさごや」

 信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763−1827)は、郷里と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠、商人の旦那衆はもとより馬子飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。

 それで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石(はねいし)山の頂に「覗き」と呼ばれところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次の句を残している。

坂本や袂の下は夕ひばり

坂本はあれぞ雲雀と一里鐘

坂本は袂の下ぞ夕雲雀

『七番日記』(文化15年3月)

 郷里と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていたとは言っても、郷里と江戸を往来するときいつも坂本宿に泊まっていたわけではないし、坂本宿に泊まっても「たかさごや」に泊まらないこともあった。

 文化5年(1808年)12月14日、小林一茶は郷里の柏原から江戸に向かう途中、坂本の糸屋彦右衛門に泊まる。

   十二[日] 晴 坂本糸屋彦右衛門泊

『文化五・六年句日記』(文化5年12月)

 文化11年(1814年)7月22日、一茶は郷里の柏原を発って、8月3日戸倉、4日小諸、5日坂本の高砂屋に泊まった。これが「たかさごや」に泊まった最後の記録である。

   三 陰 戸倉 虎杖ニ入
   四 陰 小諸 河内屋泊
   五 雨 坂本 高砂屋泊

『七番日記』(文化11年8月)

 その後、一茶は2度郷里と江戸を往来するが、「たかさごや」に泊まってはいない。

 同年12月17日、一茶は江戸を発って、20日に坂本宿に泊まった。このときは「小竹や三十良」に泊まっている。一茶が坂本宿に泊まった最後の記録である。ちなみにこの時は21日小諸に泊まり、25日に郷里の柏原へ帰っている。

   廿 晴 坂本 小竹や三十良泊
   廿一日 大吹雪 小諸二文字屋善衛門泊

『七番日記』(文化11年12月)

 「小竹や三十良」は武井三十郎。三亀亭舞仙と号する俳人。常世田長翠の門人。

坂本に常世田長翠の門人中村碓嶺がいた。

 『七番日記』(文化15年3月)に「坂本は袂の下ぞ夕雲雀」、「坂本はあれぞ雲雀と一里鐘」の句がある。ただし、一茶は文化14年(1817年)7月4日に帰郷して以来、江戸に出ることはなかった。

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