2023年福 岡

光雲神社〜母里但馬守太兵衛友信像〜
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福岡市中央区西公園に光雲神社がある。


光雲(てるも)神社御縁起

祭 神 黒田勘解由次官孝高(如水) 法名 龍光院殿
    黒田筑前守長政       法名 興雲院殿

 この神社には黒田如水公と黒田長政公の霊を祭ってある。如水、長政両公は、全国的にも有名な民謡「黒田武士」の育ての親であり、また「福岡」の名付け親でもある。

 光雲神社という名前は、両公の法名からそれぞれ一字ずつをとってつけた。

 この神社は如水、長政両公の子孫嗣公が藩主になられたとき福岡市舞鶴城内(現、平和台)本丸天主台の下に造られた「ところが」明治4年(1871年)廃藩置県のさい黒田家が東京に移転されることに決まると歴代藩主の恩恵をしたうあまりに旧藩民有志が当時十一代藩主であった長溥公に懇願し、許可を得て明治4年8月小烏吉祥院(現在の警固神社の近く)に神社を移した。

 その後、明治40年西公園に社殿落成移転し、昭和41年現在社殿に鎮座する。

黒田如水像
   
黒田長政像

   


母里但馬守太兵衛友信像


昭和51年(1976年)10月、建立。原型中ノ子タミ。彫塑中ノ子富基子。

黒田二十五旗の一人、知勇兼備の武将で、主君長政公の命を受けて福島正則公に使いしたとき、禁酒の太兵衛が、なみなみと注がれた大杯の酒を自若として飲み干し、太閤秀吉より拝領の福島家、家宝「名槍日本号」を持ち帰った話は有名であります。

なお、像の下部には全国で親しまれている「黒田節」の歌詞が刻まれています。

筑前今様


のめのめ酒をのみとりて
我が日の本のこの槍を
取り越すほどにのむならば
これぞ眞の黒田武士
母里家家傳

筑前今様歌碑


 今の唐人町2丁目に在住し福岡藩の書学師・儒学者・歌人であり特に書家として有名であった二川相近(1787〜1836年)とその高弟・石松元啓(1797〜1883年)の今様歌を刻んだ歌碑で、明治21年(1888年)に建立されたものです。

  合渡の川の河柳 うゑてぞしのぶふる事(や)
  やり一すぢにさび刀 御代の恵みは天地(に)       二川 相近

  黒田柳となをおひて 其里人もかたよらす
  むかしをしのぶ春ごとに 緑のかげを仰ぐなり       石松 元啓

 この2首は、関ヶ原の戦いの前に合渡川(岐阜市)を強行渡河した先陣・黒田勢の勇気を称えた歌と、大将・黒田長政が渡河中に馬もろとも流されそうになった時、兜が川柳の枝に引っかかり一命を取りとめたというエピソードのある川柳の木が、福岡に植えられていたことを歌った「今様歌」です。

 今様歌とは、江戸時代後期に流行した七五調を四回繰り返す四十八調の和歌で、二川相近は多くの今様歌を残しています。

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