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道後にも別れむとして朝はやく伊佐爾波神社をろがみまつる
「『形影抄』以後」 |

| 伊狹庭の |
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| 湯はしも |
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| さはに |
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| 梅咲けり |
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加倉井秋を(本名・昭夫)は茨城県生まれ、東京美術学校(現、芸大の前身)卒業。 国立愛媛療養所で俳句を指導、俳誌「冬草」を療養所内で発行していたが、これを東京へ引きとり主宰した。 句は万葉歌人の山部赤人が西暦736年の頃、道後温泉の丘で詠んだ長歌の「……湯はしもさはにあれども、島山のよろしき国と……伊狹庭の岡に立たして……」とあるのに因んだもの。 俳誌「冬草」の同人が昭和61年10月10日建立。
松山市教育委員会 |


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伊佐爾波という社名の起源は諸説あるが、『古事記』に「建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひまつりき。是に大后、歸神(かむがかり)して…」、『日本書紀』に「建内宿禰に命せて琴撫かしめ、中臣烏賊津使主を喚して審神者(さには)と為す」とあり、これに神聖、清浄なという意味の「い(斎)」が付いたもので、神功皇后に関わる名称ともされる。 当神社は、河野氏が湯築城の鎮守として、今の地に移したといわれ、その後、加藤嘉明が、松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所となったという。 現在の社殿は、松山藩松平第三代藩主の定長が、将軍から命じられた流鏑馬を成功させたお礼として建立したもので、その様式は、大分県の宇佐神宮、京都の石清水八幡と並んで日本を代表する八幡造といわれる。
松山市教育委員会 |

| 栗の花に |
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| 雨滲み通り |
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| いろ深し |
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| あさきゆめこそ |
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| 深く夢みよ |
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この歌碑は久保齊そのものである。氏は1939年愛媛県内子町に生まれ、中央大学卒。愛媛新聞社入社後の小説「海」が太宰治賞候補に選ばれ脚光をあびた。然し氏は、更に大きい夢、短歌の革新をめざし、歌誌「水天(かこ)」を創刊。ついで「にぎたづ」主宰となり、文壇、歌壇から絶大の期待を寄せられつつ、93年2月19日逝去された。嗚呼19日は正岡子規の忌日であった。 歌碑建立は氏を敬慕する400余名の浄財によった。 ここは萬葉集の山辺赤人の歌伊佐爾波の名の聖地、額田王の熟田津の見える丘。氏はここで萬葉人や師友と語りあっている。その聲が聞こえてくる。
山上次郎 |
