2022年愛 媛

伊達博物館〜伊達宗城侯〜
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JR予讃線「宇和島」駅下車。宇和島バスで「東高校前」へ。

宇和島市御殿町に伊達博物館がある。


芝不器男の句碑があった。


白藤や
 堀りやみしかば
      うすみどり

芝不器男(1903〜1930)

北宇和郡松野生れの俳人。俳句に万葉調を導入することによって「現代俳壇の彗星」と称された。

伊達宗城侯像


伊達宗城候侯畧歴

伊達宗城侯は、幕臣山口相模守直勝(第五代村侯の孫)の次男として文政元年(1818年)8月江戸に生まれ、同12年(1829年)3月伊達宗紀(第七代)の養子となり、弘化元年(1844年)7月宗紀退隠の後を享けて宇和島藩第八代の藩主となりました。

嘉永元年高野長英を、同6年村田亮庵(後蔵六と改め更に大村益次郎と称す)を聘して、蘭學の教授、翻訳、砲台の築造、軍艦の建造等又洋式の砲術、戰術の研究をなさしめ、進取の藩主としてその英明を称揚せられ、松平春嶽・山内容堂・島津久光等大藩の諸侯に伍して天下の四賢侯と称せられました。

明治維新に際しては、枢機に参画して活躍し、明治元年(1868年)5月参議に任ぜられ、明治2年民部卿兼大蔵卿、同3年には大蔵卿専任として國家財政の衝にあたり、明治4年(1871年)條約締結の為欽差全権大臣として外務卿柳原前光を帯同清國に赴き大任を果たされました。

明治14年勲二等、明治22年勲一等、同23年には旭日大綬章を、翌24年勲功により嗣子宗徳(第九代)に侯爵を授けられ、明治25年(1892年)特旨を以て從一位に叙せられて人臣最高の栄誉に浴し、同月20日齢75東京今戸の自邸に薨ぜられました。

お墓は市内龍華山等覚寺にあります。

金剛山住職 飯田泰龍謹書

偕楽園跡


 この庭は、江戸中期の縮景風池泉回遊式庭園の一部で、かつては豊富な清流を取り込んだ、かなり大規模なものであったと推察されます。石組は水蝕された砂岩を主役にし、橋など一部に緑泥片岩「伊予の青石」をあしらっております。このたびの復元では、やむをえず池を枯山水風にあらためましたが、年代を経た樹木の風格と石組のすぐれた技術が往時のすばらしさを偲ばせます。またこの庭には縁起のよい祝儀の庭「鶴亀」の形式が組み入れられており、中島の亀島左後方の三尊石組等その面影が残されています。

松根東洋城の句碑


我か祖先ハ
  奥の最上や
      天の川

 松根家の遠祖は奥州の勇将最上義光であり、その子光広が庄内の松根に城を移し、名字を改めて松根備前守となったと伝えられている。

この句碑は松根東洋城、当市出身の書で松根邸跡(当市御殿町)にあったものを遺族の希望によりここに移築したものです。松根家は羽前(今の山形県)よりうつった伊達家の家臣で由緒ある家柄ですが、特に祖父松根図書は明治維新にあたり藩の執政として土佐の後藤象二郎等と共に大政奉還の王事に奔走した伊達藩の中心人物でした。

東洋城は、夏目漱石を終生の師とし、はじめ俳誌「ホトトギス」によったが、大正4年に「澁柿」を創刊、芭蕉の俳諧を尊び人間形成としての俳句の道を歩み、定型派俳壇における貴重な存在として後進の指導に当りました。本名、豊次郎、京大卒、宮内省式部官、芸術院賞受賞、昭和39年(1964年)10月28日東京において没す、86歳

裏 面


       七十二叟

島々や湾の外まで春の海

宇和島市御殿町の市立病院に「松根邸址」の碑がある。


伊達博物館前に冠の柳がある。

天赦園へ。

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