能登屋は文化13年(1816年)7月25日江差中歌町から現在地に移り、代々廻船宿・会議所・旅籠を営んだ関係で、幕末の歴史に名を残した人物が宿泊、又立ち寄った。弘化4年(1847年)江差に「百印百詩」という大きな文化遺産を残した2人の若者、一人は「頼山陽」の三男で安政の大獄で処刑された「頼三樹三郎」、もう一人は北海道の名付け親でもある「松浦武四郎」、2人は「能登屋の坂」を昇り降り時、よく立ち寄った。函館戦争時、明治元年(1868年)11月15日、開陽丸で来た「榎本武揚」、艦長の「沢太郎左衛門」等幹部が宿泊、その夜天候が急変、暴風雪のため開陽丸座礁沈没。その後松前城を落とした「土方歳三」が江差に到着、能登屋に来て開陽丸が沈んでゆく様を榎本らと見る。明治2年3月陸軍奉行「大鳥圭介」が江差視察時に宿泊する。同4月10日新政府軍の江差上陸時には「松前藩」の本陣となった。尚、句碑台座に刻まれている俳号の「半三」は能登屋六代「平井三右衛門」と想われる。
建立・碑文 能登屋十五代 平井良治
協力者 秋田市 平井洋子