芭蕉ゆかりの地
『芭蕉翁略伝』(幻窓湖中著)
弘化2年(1845年)、刊。幻窓湖中編輯。西巷野巣校合。
芭蕉菴桃青翁は伊賀國阿拜郡柘植村の人也。平士彌平兵衞宗清苗裔、
其類同郷に姓をわかつ。柘植氏、松尾士、福地氏等也。宗清が屋敷の跡今に存す。庭に大なる石の手水鉢あり。
諸書に此人なし。半左衞門とあり。伊賀より出せる芭蕉傳集の説に據て爰に出す。
と云。同国上野赤坂町に手蹟師範を以家業とす。次を半左衞門命清と云、藤堂主殿 一説九兵衞 長基の臣也。三は則芭蕉翁也。
正保元甲申歳 生れ給ひて幼名を松尾半七 一説甚七郎、又稱金作
後改めて忠左衞門宗房と稱す。母は豫州宇和島の産、桃地氏の女也。
芭蕉翁繪詞傳に云、宗清領所なれば伊賀國阿拜郡柘植庄に忍住す。其子土師三郎家清、夫より五代を經て、清正と云人に子數多ありて家をわかつ。山川、勝島、西川、松尾、北河と名乘、代々柘植庄に住り。其末に松尾與左衞門と申せし人、初て國の府なる上野の赤坂に住り。是芭蕉翁の父也。母は伊豫の國人也。姓氏さだかならず、其子二男四女あり。嫡子儀左衞門命清後に半左衞門と云。次男半七郎宗房、童名金作、是翁也。後に名を更て忠左衞門と云。
同愚案、蕉翁全傳には蕉翁の俗名藤七郎とあり。藤堂家には半七郎と呼りとぞ。兄を半左衛門といへるは、さるを浪華の遊行寺に野坡が建し碑には甚質と書り。京都の双林寺に、支考が建し碑に、百地黨と書しは松尾氏の先祖に百司といひし別姓あり、其謬りなりと伊賀の國人傳ふ。
又曰、柏原の御門の御ながれ、常陸介平正盛と申人の末に右兵衛尉平季宗、其子彌平兵衛宗清。
東鑑に彌平左衛門尉、大系圖に右兵衛尉季宗子宗清、武家系圖に左衛門尉季清、彌平左衛門宗清。
參考保元平治物語に、彌平兵衛宗清、平季宗の子。
同愚案、東鑑に斯あれど、其外の書に宗清の終りし事詳ならず。されば伊賀の蕉翁全傳、或は伊賀の國人の説に從ふ。そが上大系圖宗清が母の系譜に柘植と號したるならん。たとはゞ同時に同國同郡服部の人に、服部平内左衛門尉宗長有、是世に云伊賀平内左衛門也。今も柘植郷には松尾と云家多し。
寛文二壬寅年 宗房十九歳にして初て藤堂新七郎良精の臣と
なる。夫より嫡子主斗良忠に仕ふ。良忠ある時は宗房を呼で月花をもてあそばれしと也。良忠俳名蝉吟 此人北村季吟 號拾穂軒 稱再昌院訪印 の門にして宗房と兩吟の巻あり。其外反故ども數多あり。一とせ大坂の役に戰死せられし藤堂新七郎良勝 良精の父にして良忠の祖父なり 遠忌法筵に、
大坂や見ぬ世の夢の五十年 蝉吟
寛文六丙午 宗房廿三歳 の夏四月、良忠不幸にして蛋く世を辭せ
らる。宗房深く傷悼して、同六月半遺髪の供して高野山報恩院に収む。報恩院の過去帳にも松尾忠左衛門殿と記し今にあり。同月末に下山して、ひそかに遁世の志ありて頻にいとまを乞へどもゆるしなければ、其年秋七月遂に私に主家を避退して、同僚孫太夫の宅門に一封を殘す。
雲とへだつ友かや雁の生わかれ 宗房
と書し短冊也。宗房が宅地は、藤堂新七郎中屋敷城東にあり。良精の臣、兄半左衛門爰に住す。半左衛門、前に長基臣と有。後に良精に仕るか。孰不知是。 孫太夫は隣家なり。今河合何某住る所宗房の舊宅なり。
芭蕉翁繪詞傳愚按に曰、此時良忠の子息良長未三歳なりしを、宗房二なく忠を盡し家を繼しむ。されば續扶桑隱逸傳第三巻に。仕府主君而有忠勤云、宗房の住し家は、上野の玄蕃町と云所にあり。
元禄三年午加州の北枝への消息に、筑紫行脚ありしよし有、其時予二十五歳と云々、是を見れば季吟に遊學中の事なるべし。然ども事跡未詳。
寛文十二壬子 行年廿九 九月初て東武に下ル。小石川水樋
風俗文選云、翁嘗世爲遺功修武小石川之水道四年成捨功而入深川芭蕉庵出家三十七歳云。
愚案、小石川水樋に功を殘されしといへること文明ならず。一説に松村市兵衛と稱して幕府の普請方を司り玉ひしといへり。今猶其家普請方を司て兩家侍り。位牌印譜反故に在ると云々。藤堂家を憚て、松尾を更て松村と稱し給ひし物か。又松村家は素よりありて其食客に侍りしを、蕉翁の才能をかりて水樋の功をなしたるもの歟。しかれども位牌印譜の存在するをもて見れば、一説實事を得たるものか。二十九歳にて東都に下り、三十一歳にして薙髪し給ふ。其間僅三年也。乍去諸書考る所なし。
天和元辛酉 行年丗八 同二壬戌 行年丗九 同三癸亥 行年四十
和其角蓼螢句 其角號寳晋齊又、螺舎、或、狂而堂、本姓は寳井氏也。榎本氏は母方の姓。
朝顔に我はめし喰ふをとこかな
一説に貞享二、其角が大酒をいましめたもふ句といへり。
此年の冬、深川の草庵急火にかこまれ、殆あやうかりしが、潮にひたり蓬をかつぎて、煙の中にいきのび給ひけり。是ぞ玉の緒のはかなきはじめなり。爰に猶如火宅の變を悟り、無所住の心を發して、其次の年佛頂禅師 江戸臨川寺住職 の奴六祖五平と云 甲州の産にして佛頂和尚竹に仕へ大悟したるもの ものゝ情にて甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊ばれしとぞ。
一説に甲州の郡内谷村と初雁村とに、久敷足をととゞめられし事あり。初雁村の等力山萬福寺と云寺に、翁の書れし物多くあり。又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後、かの姉の許へ、杉風より添書など持れて行かれしなるべしと云。
愚案、世に傳ふ臨川寺の佛頂禅師にしたがひて、禪を熟されしと云此頃の事なるべし。
夫より深川に歸りおはしければ、人々悦て燒原の舊草に菴を結び、しばしも心とゞまる詠にもと又ばせを一株を栽たり。
貞享元甲子 天和四十月九日改元 深川在庵 行年四十一
大和より山城を經て近江路に入、美濃に至り、今須山中を過て、
義朝のこゝろに似たりあきの風
不破をこして、
秋風や藪も畠も不破の關
株瀬川の木因 世に株瀬川の翁と稱す が家を主として、武蔵野の旅發を觀じ給ひ、
死にもせぬ旅寢のはてよあきの暮
株瀬川の木因 世に株瀬川の翁と稱す が家を主として、武蔵野の旅發を觀じ給ひ、
死にもせぬ旅寢のはてよあきの暮
此時大垣の如行、荊口、大垣の士宮崎氏也。此筋、千川、文鳥の父、後致仕して改東宇、津、戸田侯の臣 入門す。時に如行、翁を招奉て、
霜寒き旅寢に蚊屋を着せ申 如行
(※「蚊屋」=「虫」+「厨」)
古人かやうの夜の木がらし
といふ挨拶あり。尾州に往て桐葉 林氏 が家に至らるゝに主の心ざし深切なりしかば、
此海に草鞋も捨ん笠しぐれ
師走の海見たまへと、人々にいざなはれ給ひて、
海暮て鴨の聲ほのかに白し
熱田に詣給ひしに社頭頽破なり。
しのぶさへ枯て餅かふ舎りかな
名護屋に入。笠は長途の雨にほころび、紙衣は泊々の嵐にもめたり。と前書有て、
木がらしの身は竹齋に似たるかな
左山の抱月亭に遊び給ひて、
笠寺は鳴海と宮の間にあり。寺號轉輪山笠覆寺と云。觀音の靈場、笠を召たる御姿の木像なり。ゆゑに笠寺と名づく。願にも笠を奉る。
伊勢が賣家にも來たり千代の春
春雨の雫もいまだ乾ざるに、暮かゝりたる草庵の閑なる折から、妨げる人もなくて、
古池や蛙飛こむ水のおと
隣庵の僧宗波旅に赴れけるを
古巣たゞあはれなるべきとなり哉
春の曉集 初懐紙鶴百韵と云 春の日集成。夏四月常陸潮来の本間道悦 號自準亭松江、後同州小川に住 の門に入て醫を學び給ふ。起請文に貞享三年丙寅四月十二日とあり 冬に至て深川に歸り、ふたゝび芭蕉庵を作りて、
あられきくや此身はもとの古柏
素堂兩吟和漢の誹諧は、貞享丙寅と諸書に出せり。しかるに本間氏の門に入りて醫業を學び給ふ事、此年を實事とすなれば、此兩吟は乙丑、或丁卯の年にや侍らん。もし四月五月の頃、醫業を學び給ひ、六月納涼の頃は東武に歸り、和漢の誹諧ありて又秋にいたり潮來に下られ侍るにや詳ならず。又云素堂は號なり。表得來雪、俗名山口総兵衛、一説太郎兵衛、博覧の人、又詩作に長ず。總州葛飾に住す。兩吟の立句は
破風口に日影やよわる夕すゞみ 翁
月雪とのさばりけらし年の暮
貞享四 卯 行年四十四 深川在庵。嵐雪 號雪中庵。又稱玄峯、俗名
古郷の誹諧世に五庵と稱するものは所謂、再形庵、初名無名庵、蓑蟲庵、瓢竹庵、東麓庵、西麓庵なり。
貞享五戊辰 行年四十五 宵の年空の名殘をしまんと舊友來りて
沙石集に唐の龍興寺の鑑眞和尚、聖武天皇の御宇吾朝へ來て、南都の東大寺、鎮西の觀世音寺、下野の藥師寺、三戒の壇を立給ふ云々。又一本に海上七十餘度の難風を凌、目盲させ給ひしと云。
或人云、此句延寶九年六月印行言水撰、東日記と云集に出たりとなり。猿蓑集に此冬、信濃路を過るとはし書有て、
と云句をなし給ふ。然れども翌年、奥のほそ道に去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひといふ詞あれば、疑なく八九月の頃、深川に歸庵せられしなるべし。信濃を過のはし書は儲て書たまひしものか。
金澤に到。先一笑 小松氏 稱茶や新七 が墓に詣、
塚もうごけ我泣聲は秋の風
小春亭に遊び給ふ。其饗應山海の珍味をつらね善美を盡したる設也。其次の夜の會は淺野川下なる一草庵にありしが、饗應を大にいましめ給ひて只煎茶のみなり。
しら露のさびしき味をわするゝな
元禄三庚午 行年四十七 都近き所に春を迎ふ。と詞書ありて、
一書に、元禄三の夏は國分山に籠り、山を下りて里の童に谷川の石を拾せて、一石に一字づゝの法華經を寫し給ひしと云々。
加州秋之坊 寂玄と稱 を幻住庵にとゞめ、二夜假寢し給ひし時、
我宿は蚊のちひさきを馳走かな
麓まで見送り給ひて、
やがて死ぬけしきは見えず蝉の聲
旅癖や寢冷えわづらふ秋のやま
といふ句を殘し給ひ其庵を出給ふ。
此年夏秋の間、京の去来、凡兆、史邦、野水等幻住庵に來て俳諧あり、是則猿蓑集なり。翌年の夏、嵯峨日記に云、去年の夏凡兆 加賀の産 京に住 が家に遊、ひとつ蚊帳(※「虫」+「厨」)に四ヶ國の人寢たりし事あり。と書れし事あれば、上京の事も有しにや。諸書考る所なし。
元禄四辛未 行年四十八 湖頭の無名庵にて春を迎ふ。三日閉口四日
翌年の秋、深川の庵を再興して入給ふ。栖をかへるのことばあり。
二十八日、又畔止亭に遊び給ひて、
秋深き隣は何をする人ぞ
芝柏が招きに應じ、此發句を殘し申されて、明日は必ゆかんと約したまひしが、園女亭の饗應の菌の塊積に障ると覺られて、二十九日より泄痢のいたはり有て、御堂前花屋仁左衛門が家に臥給ふ。此時看病の人支考、惟然、洒堂、之道、舎羅、苔蘇、呑舟、次郎兵衛尼壽貞の子等なり 十月二日、三日の頃より病漸々につのりける。こゝにおいて五日には、所々の門人親友へ消息あり。此頃に至て近里遠境の門人三千餘人に及ふと云、 少し快と申さる。七日に京より去來、江州龍ヶ岡の丈艸 號佛幻庵、俗名内藤氏 大津より木節、乙州、膳所の正秀等各來る。八日の夜、深更に及で介抱に侍ける呑舟を召れ、
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
と云句を書しめ給ふ。其後、去來、支考を召て此吟の可否を問給ふ。九日病革なりければ、故郷への文、遺物等の沙汰あり。十一日の夕其角來る。
其角この時、岩翁、龜翁などいふ人を伴ひ、泉州境一見して歸さ、蕉翁の大阪旅宿に悩給ふと聞て、急ぎ馳參りしと也。
其夜も明るほどに、木節を諭し申されけるは、吾、生死も朝暮に迫りぬと覺ゆる也。素より水宿雪棲の身の此の藥、かの藥とて淺ましうあがき果べきにもあらず。只願くは老子の藥にて、最期までの唇 潤し候半と、深く頼置て、其後は左右の人を退けて不浄をながし、香を焚(※「焚」=「火」+「主」)て後、安臥してものいひ給はず。十二日の申の刻斗り、眠るごとく遷化し給ひけり。門人おのおの涙にくれながら、其夜亡骸を長櫃に入、川舟に乘、十餘人從て伏見に着岸す。
此夜江州平田の李由下りしが、其角に行あひ乘移りて櫃に從ふ。其餘膳所の臥高、昌房、探志は行違ひ浪華に下る。伊賀より猿雖、土芳、卓袋など下りしが、皆亡骸にもあひまゐらせず。直引返して十四日の埋葬にはあひ奉りしとなり。
十三日湖南に到、木曾塚の無名庵に入奉りて、十四日をもて埋葬と定む。招ざるに馳集る門葉舊友三百餘輩也。葬儀をいとなみて、粟津の義仲寺に収畢。
石碑芭蕉翁の三字
僧丈艸の筆也
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