芭蕉の句
一家に遊女もねたり萩と月
出典は『奥の細道』。
元禄2年(1689年)7月12日(陽暦8月26日)、芭蕉は親しらず子しらずを越え、市振の宿に泊まった。
今日は親しらず子しらず犬もどり駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば、枕引よせて寝たるに、一間隔て面の方に若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。
伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめてはかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因いかにつたなしと、物云をきくきく寝入て、あした旅立に、我々にむかひて、行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へと泪を落す。
不便の事には 侍れども、我々は所々にてとゞまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護かならず恙なかるべしと云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。
一家に遊女もねたり萩と月
「奥の細道市振の宿桔梗屋跡」
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いている。
市振の里は、此處より漸く越中の平野に出でようと云ふ處、山と海にはさまれて在る、新潟の二人の娼婦にたよられて、芭蕉翁モヂモヂと氣の毒さうに云ひことはる、一つ家に遊女も寝たりと咏んで、自身あはれに興深く思はれたやうす、
越中境PAの句碑
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