一茶の句碑

炎天寺


やせ蛙負けるな一茶是にあり

 日本地域文化研究所の亀井千歩子さんから足立区の炎天寺に小林一茶の句碑があると聞いて、行ってみることにした。

東武伊勢崎線竹の塚から線路沿いに歩くと、栗六(くりろく)公園がある。


栗六公園の東に炎天寺がある。


炎天寺


真言宗豊山派の寺である。

炎天寺の歴史

 当山は平安期の末に創建されたもので、天喜4年(1056年)炎天続きの旧暦の6月奥州の安倍一族の反乱を鎮圧に赴く源頼義(985−1078)、八幡太郎義家父子の率いる軍勢が野武士と激しく戦い、極めて苦戦となったが、京の岩清水の八幡宮に祈念し、ようやく勝利を得ることができた

 そこで寺の隣に八幡宮を建立、地名を六月村と改め、寺名を源氏の白旗(幡)が勝ったので幡勝山、戦勝祈願が成就したので成就院、気候が炎天続きだったので炎天寺と改められたと伝えられる源氏ゆかりの寺で、江戸後期の俳人小林一茶がいくつかの名句を残している。

 明和2年(1765年)9月11日、白井鳥酔は輕羽法師と雨月と共に常陸の旅に出る。途上炎天寺を訪ねている。

六月村の炎天寺を問ひ、水神村の水に口すゝき、越ケ谷驛島根氏は舊識なれは一夜旅ならぬ饗應にあふ。


八幡宮


八幡宮

六月村にあり。別当を炎天寺と号す。伝へ云ふ、八幡太郎義家朝臣奥州征伐の時、この国の野武士ども道を遮る。その時六月炎天なりければ、味方の勢労れて、戦はんとする気色もなかりしにより、義家朝臣心中に鎌倉八幡宮を祈念ありしかば、不思議に太陽繞(めぐ)るが如く光りを背に受けければ、敵の野武士等日にむかふ故に眼(まなこ)くらみ、大いに敗北しぬ。依つてこの地に八幡宮を勧請ありしとぞ。この故に村を六月といひ、寺を炎天と称し、又幡正山と号すとなり。


文化11年(1814年)、一茶は52歳で、きく28歳と結婚。

一茶の句碑


やせ蛙負けるな一茶是にあり

『七番日記』に「四月廿日也けり」とあるが、3月に収録されている。

   蛙たゝかひ見にまかる四月廿日也けり

痩蛙まけるな一茶是に有

『七番日記』(文化13年3月)

 希杖本『一茶句集』の前書きに「武蔵の国、竹の塚というに蛙たたかいありけるに見にまかる、四月二十日なりけり」とあるということで、炎天寺で詠んだものだとされる。

 この年の4月14日、長男千太郎が生まれた。4月20日に炎天寺を訪れたのが事実だとすれば、長男千太郎が生まれたことも知らないで、「蛙たたかい」を見に行ったことになる。5月11日、長男千太郎没す。

 『七番日記』によると、文化12年(1815年)12月28日、一茶は柏原に入り、翌13年(1816年)10月1日谷中の長久山本行寺に入る。この間江戸には居なかった。

   八 晴 又雪 柏原ニ入

『七番日記』(文化12年12月)

   一 晴 谷中長久山ニ入

『七番日記』(文化13年10月)

 炎天寺で詠んだものだとすれば、文化13年(1816年)ではなく、文化9年(1812年)以前のことであろう。

この句の碑は小布施町の岩松院にもある。

石の蛙があった。


やせ蛙ではない。



蝉鳴くや六月村の炎天寺

『七番日記』(文化13年9月)に収録されているが、夏の句である。

夏 蝉鳴くや六月村の炎天寺

『七番日記』(文化13年9月)

句碑は1962年に建立。

類句で次のものがある。

むら雨や六月村の炎天寺

『七番日記』(文化14年6月)

 嘉永3年(1850年)、12代将軍徳川家慶は鶴の御鷹狩に炎天寺を御膳所とした。

門の脇に石田波郷の句碑があった。



日洩れては急ぐ落葉や炎天寺

1995年、建立。

白梅がきれいに咲いていた。


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