下 町江戸川区
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小松菜屋敷〜日本地域文化研究所〜

 JR総武線新小岩から平和橋通りを行くと、バス停「江戸川高校前」の近くに香取神社がある。


境内に芭蕉の句碑がある。


秋に添うて行かばや末は小松川

香取神社の隣に小松菜屋敷がある。


小松菜屋敷(旧いづみ様)由来

 八代将軍徳川吉宗(有徳院)は、「鷹将軍」と異名のあるほど鷹狩りを好み、湿地帯が多く好狩場であった葛西領の、特に現在の江戸川区には76回も訪れている。

 将軍が鷹狩りに来られた際、食事をとる所を「御膳所」といい近くの社寺が利用された。

 亀井家(昔より土地の人々に「いづみ様」とよばれて来た)に伝わる話として、享保4年(1719)に吉宗公が来られた際、西小松川村の間々井の森の香取社で、ときの神主・亀井和泉守が、餅の清まし汁に冬菜を添えて差し上げたところ、将軍はその冬菜の香味を大変喜ばれた。未だこの菜に名前がなかったところから、小松川の里の名ゆえに「小松菜」と命名されたと伝えられている。

(亀井千歩子著『小松菜の里』より)

 小松川は小松川境川で東小松川村と西小松川村に分かれていた。香取神社は西小松川村の鎮守である。小松川境川は現在小松川境川親水公園になっているが、昔は舟が行き来する重要な水路であった。

間々井の森 香取社 龜井和泉守屋敷趾


 「龜井和泉守屋敷」というから大名屋敷かと思ったら、香取社の神主の屋敷であるとのこと。当時は神社の神主も「守」の称号を用いたのだそうだ。

こまつな様


小松菜がお供えしてある。

こまつな様

 「こまつな様」は、正しくは亀井家に伝わる半跏思惟(はんかしい)の如意輪観音」像で、神仏習合時代の女性の先祖の供養仏です。

 右手を頬に当て、物思いにふけっている姿から心配事や困った事があった時などに、お願いすると必ず願いを叶えてくれました。特に「困ったな」と言って畑の小松菜を摘んで来て供えると「願いが早く叶う」と父の言い伝えが残っています。

日本地域文化研究所 亀井千歩子

今日は亀井千歩子さんにお話を伺うことになっている。

 お忙しい中、応接間に案内していただいた。応接間には鷹の屏風が用意されている。吉宗公の鷹狩りにちなんでのことか。

 テーブルには「秘伝うちの味」と書かれた朝日新聞(平成14年12月)が置いてあった。

 正月のお雑煮に小松菜を添えるのが一般的なようだが、小松川辺りの旧家ではお雑煮に小松菜を入れたりはしないのだそうだ。七草までは「青物断ち」なのである。

床の間に芭蕉像があった。


芭蕉と冬菜

松尾芭蕉(1644−1694)に「冬菜」を詠んだ句がある。

    さしこもる葎(むぐら)の友かふゆなうり


元禄元年(1688年)師走、芭蕉45歳の時である。

冬菜が小松菜であろう。まだ「小松菜」の名はなかった。

「葛西菜」と「葛西船」

冬菜は小松川が葛飾郡葛西領であったことから、「葛西菜」とも呼ばれていた。

 また「葛西船」というものがあって、下肥を江戸から東部の村々へ運んでいた。中でも葛西の農民権四郎は江戸城本丸の汲み取りを引き受けていたことで有名だった。このため、江戸の人々は肥船はすべて葛西から来るものと思い、肥船を「葛西船」と呼んだ。

 「葛西菜」には「葛西船」のイメージがまとわりついていたのである。それで「小松菜」と呼ばれるようになったのだろう。

一茶と小松菜

小林一茶(1763−1827)に「小松菜」を詠んだ句がある。

小松菜の見事に生て蚊やり立   『文化句帖』

文化元年(1804年)。一茶42歳の時である。

小松菜の一文束やけさの霜   『八番日記』

文政2年(1819年)、一茶57歳の時の句。

この句の碑を建立する計画が進められている。

都内に一茶の句碑は少ない。足立区の炎天寺に句碑があるそうだ。

蝉鳴くや六月村の炎天寺
   『七番日記』

やせ蛙負けるな一茶是にあり
   『七番日記』

一茶と葛飾派

 小林一茶は宝暦13年(1763年)信濃国柏原(長野県上水内郡信濃町柏原)に生まれたが、幼くして母親と死別。継母との折り合いがうまくいかなかった。

15歳の時、江戸へ奉公に出る。俳諧を葛飾派に学ぶ。

 葛飾派は山口素堂(1642−1716)を祖とする俳諧の一派。素堂が江戸葛飾に住んだことによる。素堂は芭蕉に大きな影響を与えた。ちなみに葛飾北斎(1760−1849)を祖とする浮世絵の流派も葛飾派と言う。

葛飾と水原秋桜子

 「葛飾」は東京都葛飾区が知られている。他に埼玉県北葛飾郡、千葉県船橋市葛飾町があるように、東京都、埼玉県、千葉県さらに茨城県に広がる一帯であった。

水原秋桜子『葛飾』(昭和5年)

梨咲くと葛飾の野はとの曇

葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり

水原秋桜子(1892−1981)の句も東京都葛飾区というわけではない。

亀井鳴瀬と杉芽女

 香取神社の第21代宮司は亀井鳴瀬という俳人で、原石鼎(1889〜1951)に師事した。その妻キヨも俳号杉芽女という俳人であった。亀井千歩子さんの御両親である。

秋風や模様のちがふ皿二つ   原石鼎

香取神社で句会が開かれていたそうだ。

香取神社社務所の前に葛飾風物保存の碑があり、夫妻の句が刻まれている。



香取神社の芭蕉の句碑は杉芽女建立。

亀井鳴瀬と星野麥丘人

 亀井鳴瀬の著書に『葛飾風物誌』がある。「葛飾」の風物、風俗、行事等を俳句を中心に俳文、解説を交えたものだそうだ。この「葛飾」も東京都葛飾区というわけではない。

亀井千歩子さんの日本地域文化研究所は父の研究を継承しているのだろう。

 当時近くの中学校で先生をしていた星野麥丘人(ばくきゅうじん)は亀井鳴瀬を訪れ、話をテープに録音して行ったそうだ。現在は亀井千歩子さんがそのテープを研究をしているそうだ。

 星野麥丘人は大正14年(1925年)、東京に生まれる。昭和21年(1946年)、『鶴』入会、石田波郷(1913−1969)、石塚友二に師事。昭和61年(1986年)波郷、友二のあとを継いで『鶴』主宰となる。

星涼しアンデルセンの童話   星野麥丘人

亀井千歩子さんの著書

亀井千歩子さんは大妻女子大学卒業後、旅行作家として旅行記を執筆。

 『歩く旅街道・古道シリーズ関東周辺街道・古道を歩く歩いてみたい懐かしい道、日帰り25コース』(山と渓谷社編)には日光街道「草加宿」、日光街道「杉並木」の他、「小松川、鷹狩りの道」も紹介されている。

 『関東小さな町小さな旅』には結城、下館等の町が紹介されている。JRや高速道路から外れて、ちょっと行けない町である。

 寛保2年(1742年)秋、与謝蕪村は結城出身の砂岡雁宕を頼って結城にやってきた。蕪村は 結城、下館等の俳人達と交遊をもち、さらに芭蕉の足跡をたどり、東北の津軽地方にまで放浪の旅を続けてた。

 一茶の句碑は幾つか見たことがあるが、蕪村の句碑はまだ1つしか見たことがない。

柳散清水涸石処々(柳散り清水かれ石ところどころ)   蕪村

敵に塩を送る

 亀井千歩子さんは大妻女子大学在学中よりから民俗学者の瀬川清子氏に師事。日本民俗学会会員である。

 かつて『塩の民俗学』、『塩の道千国街道』などを出版したが、今では手に入らない。亀井千歩子さんも古本屋で見付けて購入したそうだ。

 千国(ちくに)街道は、新潟県側の糸魚川と松本を結ぶ全長30里(約120km)の道。現在の国道148号である。糸魚川では古くから製塩が行なわれており、千国街道を経て、越後から信濃へと塩や海産物などが運ばれたことから、「塩の道」と呼ばれている。

謙信が信玄に塩を送った道である。

一昨年栂池自然園に行った時に通ったことを思い出した。

小松菜から菅江真澄まで

 亀井千歩子さんは博学である。お話は2時間半に及び、小松菜に始まって菅江真澄(1754−1829)まで、尽きることはない。

2時間半の話をまとめるのに、2日半かかった。読むのは2分半で足りる。

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