下 町北 区
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青淵文庫〜「曖依村荘」跡〜

晩香廬から青淵文庫へ。


大正14年(1925年)、「青淵文庫」建築。

 国指定重要文化財

青淵文庫

 渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。

 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けをした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。

財団法人渋沢栄一記念財団

閲覧室


 昭和11年(1936年)8月2日、高浜虚子は武蔵野探勝会で青淵文庫を訪れている。

 曖依村荘の庭は、広さ約一万二千坪あるといふ。一同思ひ思ひに拝見に出かける。玄関を出て、前庭から左手の中門をくぐると又広い芝生の庭がある洋館は、青淵先生が晩年に平素帰臥せられた処である。右手に見ゆる洋館は青淵文庫である。

緑蔭を出でゝ青淵文庫かな
   東子房

蝉時雨青淵文庫閉しあり
   霞人

榜して曰く、

   青淵文庫

大正八年青淵先生齢八秩ニ躋リ翌年陞爵ノ恩命ヲ蒙ラル知己門生之ヲ賀シ相謀リテ一文庫ヲ建テ以テ先生ニ呈ス即チ此レナリ、十四年ニ至リテ竣工ス、先生自ラ筆ヲ執リテ青淵文庫ノ四大字ヲヘン(※「匸」+「扁」)ニ題ス、階上ハ書庫ニシテ階下ニ客室アリ、先生晩年多数ノ訪客又ハ外賓ニ接スルハ多ク此処ニ於テセラレタリ

『武蔵野探勝』(暖依村荘)

渋沢栄一像


大正2年(1913年)3月、渡辺長男は渋沢栄一像作成、岡崎雪聲鋳造。

本 棚


2階の書庫には入れなかった。

渋沢栄一の記念建築を手掛けた建築家田辺淳吉


渋沢栄一の慶事を記念して建設された「誠之堂」、「晩香廬」、「青淵文庫」。この3棟を設計したのが、建築家・田辺淳吉である。

田辺淳吉は1879年東京・本郷西片町で生まれた。東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、1903年に清水組に入社。1905年に初めての作品となる大阪瓦斯株式会社を発表する。1909年には渋沢栄一が団長を務めた渡米視察団に随行員として欧米を視察した。帰国後、田辺は清水組五代技師長となり、日本倶楽部、誠之堂、晩香廬などを精力的に手掛けた。1920年に清水組を退社し、恩師の中村達太郎と協同して中村田辺建築事務所を設立。しかし独立からわずか数年後、田辺は過労により47歳という若さで亡くなる。

『建築雑誌』第488号に掲載された同級生の「弔辞」では、田辺について「誠に思慮が綿密であり、物事に対して少しもおろそかにすることなく、心身を技術に溶かし込んで真に技術と同化するかのようであった。仲間たちは、彼のことを“名人”と言っていたのである」と、述べられている。

「誠之堂」、「晩香廬」、「青淵文庫」は田辺が贈呈者からの要望を聞き、さらにそれまでの経験や学び得たものを重ね合わせながら設計するなど、こだわりが感じられる建物である。この3棟は、いずれも現存し、国の重要文化財に指定されている。長い歴史の中で大切に守られ、後世に伝えていくための維持や管理、また活用がなされている。

田辺淳吉像


知らなかった。

飛鳥山公園へ。

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