数万歩(すまんほ)に越えたる芝生の丘山にして春花秋草夏凉冬雪の眺めあるの勝地なり。始め元享年中豊島左衛門飛鳥祠(あすかのやしろ)を移す。(祭神事代主命なり。)因つて飛鳥山の号(な)あり。寛永年中王子権現御造営の時、この山上にある飛鳥祠を遷して、権現の社頭に鎮座なしけり。その後元文の頃台命によつて桜樹数千株(ちゆう)を植ゑさせられ、内には遊観の便(たつき)とし、外には蒭堯(すうげう)の為にす。年を越えて花木林となる。爾(しかり)しより騒人墨客は句を摘み章を尋ぬ。牧童樵夫は秣(まぐさ)を刈り薪をとる。殊にきさらぎ・やよひの頃は桜花爛漫として尋常(よのつね)の観にあらず。熊野の古式に春は花を以つて祀(まつ)るといへるに相合するものか歟。
『江戸名所図会』(飛鳥山) |
東京都指定有形文化財(古文書) 飛鳥山碑 八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般市民に開放した。これを記念して、 王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文2年(1737年)に碑を建立した。 石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。碑文は儒臣成島道筑(錦江)によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立に至る経緯については。道筑の子和鼎(かずさだ)(龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治世が行き届いて太平の世であることを喧伝したもの考えられる。 碑は、総高218.5cm、幅215cm、厚さ34.5cm。元享年中(1321−24)に豊島氏が王子権現を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記される。最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解するうえで重要な資料である。
東京都教育委員会 |
表面に佐久間象山作・書による詩「櫻賦」が、裏面に象山の門弟たちによる碑建立の経緯が記されています。 信濃国松代藩士であった佐久間象山(1811−1864)は、幕末の志士たちに影響を与えた儒者でした。桜賦は、象山が門弟吉田松陰の蜜出国の企てに連座、松代に蟄居中の万延元年(1860年)に作られたといわれます。賦とは、古代中国の韻文の文体の一つで、都城の賛美に多く使われました。 「皇国の名華あり、九陽の霊和を集む」と始まる桜賦は、日本の名華、桜が陽春のなかで光輝くさまを描写し、桜の花は見る人がいなくても芳香をただよわせる、と結んでいます。蟄居中だった象山が勤皇の志を桜に託した詩と考えられています。 明治14年(1881年)、門弟の勝海舟、北沢正誠、小松彰らによって碑が建立されました。表面の桜賦は、顔真卿の書風による象山の遺墨によっています。表面上部の扁額および裏面の碑文は、名筆家として知られた日下部東作(鳴鶴)、刻字は、やはり名工といわれた廣群鶴によるものです。 碑は、初め飛鳥山西北端の頂き(地主山)に立っていましたが、同所へ展望塔スカイラウンジ(飛鳥山タワー)を建てるにあたり、昭和41年に現在地へ移転されました。その際、都立王子工業高校の考古クラブの発掘によって、象山が暗殺された際の血染め挿袋を納めた石室が発見されました。石室もともに移設され、現在の碑の下に埋設されています。
東京都教育委員会 |
飛鳥山 目の下やおよそ紅葉の十個村
『寒山落木 巻三』(明治二十七年 秋) |
佛生も 復活も 花笑ふ日に |
書 院 明治三十四年以来内外ノ賓客ヲ請シテ饗宴ヲ催サレシ処ナリ |
一大横額がかゝつてゐる。青淵先生と因縁浅からぬ、徳川十五代将軍一ツ橋慶喜公の揮毫にかゝるものである。 |
曖 々 遠 人 村 依 々 墟 里 煙 明治三十四年応渋沢氏需
慶 喜 書 |
とある。曖依村荘の由来蓋しこの一篇に基くものであらう。同時に又明治三十四年の頃、このあたりはなほ人村遠く里煙墟しかつたことが想像せられ、椎花翁にあらずとも今昔の感に堪へざるものがある。
『武蔵野探勝』(暖依村荘) |
昭和20年(1945年)4月13日、空襲により曖依村荘内の「書 院」は焼失。 昭和45年(1970年)、展望塔スカイラウンジ(飛鳥山タワー)竣工。 |
そのかみの 山をおほひし 花ふゞき まぼろしにして あがる噴水 |
飛鳥山公園は、明治6年に定められたわが国最初の公園の一つです。 この公園のある台地は、上野の山から日暮里 田端 上中里と続いている丘陵の一部です。 このあたりは古くから人が住んでいたらしく、先土器時代(日本で最も古い時代) 縄文時代 弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。 ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台の所)に飛鳥明神の祠が祀られていたからと伝えられています。 江戸時代の中頃元文2年(1737年)徳川八代将軍吉宗が、この地を王子権現に寄進し、荒地を整備して、たくさんの桜や松 楓などを植えたので、それからは桜の名所として有名になり、附近に茶屋などもできました。その説明は右手の大きな石碑に刻まれていますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました。 飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語にでてくるような仇討ちの趣向や変装などのためにたいへんな賑わいでした。また、東側の崖からは、カワラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって、危険防止のために禁止されました。 この山は東から西へのなだらかな斜面でしたが、道路拡張のためにせばめられ、さきに中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。
東京王子ロータリークラブ |
平成5年(1993年)、展望塔スカイラウンジ(飛鳥山タワー)営業中止。 平成21年(2009年)7月17日、飛鳥山公園モノレール(愛称あすかパークレール)開業。 |