日本の文化と日本人の心を全世界に紹介した文豪小泉八雲の来日百年を記念して 生誕地ギリシア・レフカダ島に立つ胸像を写し最愛のこの地に建立して その文業を永遠に称えるものである。
松江市 |
昭和5年(1930年)5月27日、与謝野鉄幹・晶子夫妻は小泉八雲旧居を訪れている。 |
小泉氏八雲の住みしむかしにもまさり茂らず北庭の蓮 うら安し出雲にハァン先生の求めしものをこれぞと知れば
「落葉に坐す」 |
昭和7年(1932年)10月8日、高浜虚子は小泉八雲旧居を訪れている。 |
くはれもす八雲旧居の秋の蚊に 昭和七年十月八日 出雲松江。八雲旧居を訪ふ。 秋風に急に寒しや分の茶屋 昭和七年十月九日。松江を発ち大山に向ふ。大山登山。 |
関西俳句大会が山陰松江であつた。女学校を出たばかりの妹の晴子を京都の旅に伴ひ、つゞいて松江に向つた、宍道湖畔の宿で見た流燈、八雲旧居の玄関など忘れ得ぬものが多かつた。この旅で竹下しづの女さんに初対面した。
『虚子一日一句』(星野立子編) |
小泉八雲旧居 |
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老人のヘルンを語る秋の宿 |
松江に山陰俳句大会開催の秋に虚子師に随行、このときはじめて大山にもあそんだ印象が深い。出雲大社にも参拝した。しかし松江城をめぐる濠に沿うて士族屋敷が並んであって、その中の古ぼけた一軒を訪ねた。八雲旧居である。虚子師の「食はれもす八雲旧居の秋の蚊に」には頭が下がった。この遺跡を守る忠実らしい老人は親切に、八雲旧世をありありと偲ばせるように説明してくれるのだった。小泉八雲は日本人がまだ西洋かぶれしない民族として古い文化を守るこころを最も愛した外人で、ついには日本の娘を妻とし、帰化人となったことは誰も知るとおりである。本名ラフカジオ・ヘルン(Lafcadio Hearn)。
『自選自解 阿波野青畝句集』 |
昭和17年(1942年)、吉井勇は小泉八雲旧居を訪れた。 |
松江の市中閑寂なるところに、小泉八雲舊栖 の家あり。隣りに記念館ありて机、椅子、書 籍などの遺愛品多く存す。 城あとのめぐりの濠に水錆(みさび)浮き八雲の家も近づきにけり あかあかと午後の日射すはそのむかし八雲住みたる家の塀かも 古びたる洋燈(らんぷ)机のうへにあり小泉八雲在りし日のごと 朝夕凭(よ)りけむひとを思ふときこの古椅子もなつかしきかも
『旅 塵』 |
昭和30年(1955年)10月26日、水原秋桜子は八雲旧居を訪れている。 |
菅田庵を辞して八雲旧居へ行く。むかしの士族屋敷がそのままに保存されてあるので、間どりその他興味があるけれど、これを俳句に詠むことはむずかしそうだ。八雲記念館を見ている頃、空が明るくなって雨脚の中に薄日がさしはじめる。
「山陰行」 |
八雲旧居 蓮枯れて服紅き童女ひとり居り
『玄魚』 |
九月十一日 八雲旧居虚子句碑除幕 公会堂 八雲忌は近し虚子句碑成ることも 咲きつゞく花の命の瑠璃柳 宍道湖は秋も蜆をとるところ |
その除幕式の年尾の挨拶で「……虚子は生前句碑について、四国路を巡礼する遍路が道端で腰掛けて休むような句碑があってもよい」と話し、「八雲旧居の句碑は全国数ある句碑の中でもっとも父の好みにあった句碑……」と喜ばれたという。(くはれもす八雲旧居の秋の蚊に)という小さい句碑は八雲旧居の玄関の脇にあり、靴を履いて紐を結ぶときにそこへ足を乗せるのに丁度よい。坐ったり足を乗せたりするのも自然のあるがままの姿と肯定する虚子の心は俳諧に通じるように思える。
稲畑汀子「俳句を愛するならば」 |
昭和35年(1960年)10月10日、星野立子は高浜虚子の句碑を見ている。 |
八雲旧居の父の句碑を見て 昭和七年のことを懐古 |
くはれもす八雲旧居の秋の蚊に 虚子 |
昭和41年(1966年)10月25日、星野立子は八雲旧居の句碑に案内する。 |
八雲旧居へ句碑を見に案内。宿に帰り着くと、今美しい入日がす んだところであったと惜しがられる。夕食はまさ女さん心づくしの 珍しいお料理を頂く。食後句会。 |
惜別の夜の秋灯を見上げたる |