高槻城は南北朝期に姿を見せ江戸期には八丁松原の景観と調和して名城と称えられました。城主のなかで高山右近はキリシタン大名で有名です。大坂、京に近い城下町は漢詩人藤井竹外ら多くの文人、学者を育てました。城の石は明治初期、今の高槻の町に発展する契機となった鉄道(JR)敷設に役立つなど高槻城跡には数々のドラマが秘められています。 |
昭和14年(1939年)10月17日、西森正昭は大阪市に生まれる。 昭和37年(1962年)、金沢美術工芸大学彫刻科卒業。 昭和38年(1963年)、京都芸術大学彫刻専攻科卒。 |
昭和47年(1972年)3月、国際ロータリー366地区年次大会記念に建立。西森正昭制作。 |
高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、天文21年〈1552年〉ごろに摂津国三島郡高山(現豊能郡豊能町)で生まれたとされています。 右近と父・高山飛弾守は、元亀4年(1573年)3月、和田惟政の子惟長と対立し、やがて右近は高槻城主となりました。摂津国を束ねる荒木村重が織田信長から離反した天正6年(1578年)、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、右近に降伏をすすめました。降伏しなければ、キリスト教を弾圧するというのです。右近は村重へ子どもや妹を人質にだしており、苦悩の末に開城しました。その後は羽柴(豊臣)秀吉の下、山ア合戦などで功績を挙げました。 天正2年(1574年)、右近は高槻城の側に壮麗な協会堂を建て、キリスト教の布教に努めました。宣教師の記録によれば2万5千人の領民のうち1万8千人がキリシタンになったといわれています。 高槻城主として約12年間を過ごした後、右近は播磨船上城(明石市)に移封され、秀吉がバテレン追放令を発した天正15年(1587年)には、棄教の命令を拒否し、領地を没収されました。その後、前田利家に仕えることとなり、金沢へと赴きますが、禁教令をだした徳川幕府により、慶長19年(1614年)10月に国外追放処分を受けました。マニラに向かった右近は、到着後40日ほどで熱病におかされ、慶長20年(1615年)2月3日になくなりました。 文化人でもあった右近は、千利休の高弟「利休七哲」の一人、「利休極上一の弟子也」ともうたわれています。
高槻市教育委員会 |