築城伝説―
| 文治元年(1185年)豊後武士団棟梁であった、緒方三
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| 郎惟栄が築城。
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| 建武年中(1333〜1338)志賀貞朝から十七代、
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| 260年間志賀氏の居城。
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戦 歴―
| 天正14年(1588年)城主志賀親次は、島津義弘率い
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| る薩軍と激しく交戦して最後まで死守し、岡城が堅城と
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| しての名声を天下に示した。
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現存城郭―
| 文録3年(1594年)中川秀成が入部してから十三代、
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| 277年間中川氏の居城。
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大手門跡

大手門は城の正面に位置する門で、追手門と本来いう。追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追いつめて戦闘を集中させるのが目的であった。
岡城の大手門は、文禄3年(1594年)中川氏入部後、大手・近戸・下原の三口を切り開かれ、慶長8年(1613年)に朝日がまぶしいため古大手門から現在の位置に移された。さらに、宝永3年(1706年)に建て直しを行っている。
大手門には、侍番が置かれ城中への出入りにはかなりの注意が払われていた。
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中川但見屋敷跡

中川但見屋敷跡は西の丸周辺に存在する3つの家老屋敷の一つです。この屋敷跡は、大手門から本丸へ向かう桜馬場跡の左側に位置します。桜馬場跡沿いに正面入り口があり、其の入り口は石段を伴う門となっていました。
また屋敷跡は、中川秀成が入部した際に、岡城築城着手から本丸完成までの間、仮屋敷として過ごしたところです。
中川但見は元亀年間より太祖中川清秀の老職として仕えた戸伏氏の家系で、2代藩主久森の代に中川姓を名乗り、歴代藩主の老職として仕えています。
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近戸門跡

城壁を見下す。

岡城は名曲「荒城の月」を生んだ難攻不落の名城。
二の丸跡に滝廉太郎の銅像があった。

昭和33年(1958年)7月、建立。
朝倉文夫作。
瀧君とは竹田高等小学校の同窓であつた。君は十五才、自分は十一才、この二つの教室は丁度向かい合ってゐたので、僅かに一年間ではあったが印象は割合に深い。しかしそれから君のなくなるまでの十年間は、ほとんど何も思ひ出せないのに、十一才乃印象を土苔にして君の像を作ろうというのである。多少の不安を抱かぬでもなかつたが、製作に着手してみると印象はだんだん冴えて来て、古い記憶は再び新らしくなり、追憶は次から次えと蘇る。學校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君、それは稲葉川の川瀬に和した忘れる事の出来ない韻律であつた。そして八年後には一世を劃した名曲「四季」「箱根山」「荒城の月」に不朽の名を留めたことなど、美しい思い出の中に楽しく仕事を終つた。
昭和二十五年八月十五日 朝倉文夫識
今自分は五十七年前の童心に立ちかえり
幽懐つくるところをしらず
君をつくれば笛の音や将に月を呼ぶ
(※「土」+「素」)
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「荒城の月」の作詞は、土井晩翠。
鶴ヶ城と青葉城をモチーフに作詞された。
本丸跡の城壁

本丸跡の天満社は改修中。
規模の大きさに驚いた。
平成18年(2006年)、日本100名城に選定される。
駐車場に「あゝ義経公」の碑があった。

兄頼朝の命悲し 落ちゆく名将義経を
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天下無雙の岡城に 迎えん惟栄夢に泣く
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岡城と義経公
文治元年(今より約800年前)源義経は兄頼朝と隙を生じた。依って義経は九州に下って当地方の豪族の緒方三郎惟栄に拠り、大いに爲すあらむ事を企てたのである。即ち惟栄は岡城を始めて築き彼を待った。然るに義経及び叔父行家の船は、その年の11月大物の浦(今の兵庫県)発船して程なく海上の台風に遭遇した義経は行家と相失して一夜を天王寺の辺りに明かし西下の意志を放棄した。從って惟栄の義戦も実現されなかったのである。
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