2019年奈 良

子規の庭〜正岡子規の句碑〜
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奈良市今小路町の国道369号沿いに「日本料理 天平倶楽部」がある。

日本料理 天平倶楽部」の裏に「子規の庭」があって、自由に見学できる。

子規の庭

 この地は江戸末期から明治、大正時代にかけて奈良を代表する老舗旅館「對山楼・角定」のあった所で、政府要人や学者、文人など明治の各界を代表する著名人が数多く宿泊しました。中でも俳人正岡子規は、明治28年10月26日から4日間滞在、この近辺を散策し、多くの句を残しました。その1句を伊予青石に刻んだ句碑を建立し、当時子規が眺めたであろう柿の古木の元に彼が好んだ草花を配した小庭を作庭しました。「奈良の子規」を始め、近代日本の礎を築いた人々を掘りおこし、奈良の近代文化を顕彰することによって、この地を新たなる文化の発信地とし、歴史に出逢う素晴らしさを奈良へ訪れる多くの人達に伝えていけることを願っております。

日本料理 天平倶楽部

奈良の子規

明治28年4月、肺結核を病む身の正岡子規は日清戦争の従軍記者として中国に渡り、帰りの船中で喀血、4ケ月の療養後、郷里の松山で親友の夏目漱石から10円を借りて奈良へやってきます。

その奈良での行程は次の通りです。

10月26日
 大阪より奈良へ到着。
  市街、興福寺、若草山遠望、東大寺、手向山遠望、
  春日大社〜對山楼・角定に宿泊
10月27日
 奈良坂、般若寺、興福寺、東大寺周辺
10月28日
 法華寺、西大寺、垂仁天皇陵、薬師寺、唐招提寺、興福寺
10月29日
 法隆寺、竜田川

さて、子規は当地の對山樓に泊まった時の様子をその6年後の明治34年『ホトトギス』 第4巻 第7号に随筆「くだもの―御所柿を食ひし事」と題して次のように回想しています。

明治二十八年、神戸の病院を出て須磨や故郷をぶらついた末に、東京へ帰ろうとして大阪まで来たのは十月の末であったと思う。その時は腰の病のおこり始めた時で少し歩くのに困難を感じたが、奈良へ遊ぼうと思うて、病を推して出かけて行た。三日ほど奈良に滞留の間は幸に病気も強くならんので余は面白く見ることが出来た。この時は柿が盛になっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。

柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので、ことに奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかったことである。

余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。

ある夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、

もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食ったことがないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢に山のごとく柿を盛て来た。

さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために包丁を取て柿をむいてくれる様子である。余は柿も食いたいのであるがしかししばしの間は柿をむいている女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。

この女は年は十六、七くらいで、色は雪のごとく白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生まれはどこかと聞くと、月が瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいている。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというて柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍しく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐそこですという。余が不思議そうにしていたので、女は室の外の板間に出て、そこの中障子を明けて見せた。なるほど東大寺は自分の頭の上に当ってあるくらいである。何日の月であったかそこらの荒れたる木立の上を淋しそうに照してある。下女は更に向うを指して、大仏のお堂の後ろのあそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく聞こえます、ということであった。

子規の庭


子規は随筆『筆まかせ』の中で、「書斎及び庭園設計」と題して、将来持ちたい自分の理想の庭の設計図と共に書き記しています。

日本風の雅趣のある野生の草花が咲き乱れたるを最上とす。

この主旨に添って子規の好んだ草花を植え込みました。枯れ野もまた風雅な俳句の題材となります。

正岡明記

正岡子規の句碑


秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味

平成18年(2006年)10月24日、除幕式。

子規の宿泊した對山楼の部屋は、この近辺にあったと思われ、夕食後、月ヶ瀬出身の色白で美しい16歳の女中に剥いてもらった御所柿を食べていると、東大寺の鐘が聞こえてきた。その情景の余韻が、その後に立寄った法隆寺まで尾を引き、子規の代表作

  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

に結実したといわれている。

当時、子規は28歳。これが最後の旅となり、やがて歩行困難となるも、むしろそれ以後が正念場となって大きな業績を残し、35歳で没す。句碑の石組は子規の故郷である伊予の青石を用いた。

(正岡明記)

 正岡明氏は正岡子規研究所主宰。正岡忠三郎の子。忠三郎は子規の従兄弟、子規の死後、子規の妹・律の養子になる。

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