松蝉のこゑ暑うして砂しろき法隆寺道ゆくひともなし 法隆寺近づきぬれば吹く風もにほひ初めぬとわが友は言ふ
『短歌風土記 (大和の巻一)』 |
十日の朝、並松を出て又法隆寺の門内にいたり、すぐに後門にいで郡山のかたにゆく。かねては初瀬をと志しつれど、道けはしく行なやむよし聞へ侍れば、笠置越におもむく。法隆寺の東に斑鳩のさとあり。今は神屋と云。斑鳩の宮のあと、道の南にあり。厩戸皇子の乗給ひし甲斐の黒駒を埋し墓あり。駒塚と云。 |
法隆寺は聖徳太子創立。およそ1400年の伝統を持つ大伽藍である。 金堂、塔を中心とする西院伽藍は、よく上代寺院の相貌を伝え、わが国現存最古の寺院建築として、極めて価値が高い、その寺院は天平19年の当寺資財帳に「方一百丈」とあり、また鎌倉時代の古今目録抄などによれば、現地域とほぼ合致している。 夢殿を中心とする東院伽藍は、天平11年行信により聖徳太子の斑鳩宮故地に創立されたが、天平宝字5年の東院資財帳に示される寺域は、現東院境内に現中宮寺をあわせた地域とみられる。 すなわち東西両院をふくむ、法隆寺伽藍の全域は、わが国上代寺院史上各種の重要史料を内包し、また斑鳩宮跡、若草伽藍などの重要遺跡をもあわせて、その歴史的並びに宗教的価値はきわめて高いものである。 |
この歌は、聖徳太子千三百年大遠忌にあたる大正10年法隆寺を訪れた會津八一が悠久の歳月を立ち続けた五重塔の姿に感嘆して詠んだ。 會津(1881〜1956)新潟市生 早稲田大学の東洋美術学者で歌人、書家。 |
法隆寺 仏舎利とこたへて消えよ露の玉 法隆寺 二句 行く秋をしぐれかけたり法隆寺 行く秋を雨に氣車待つ野茶屋哉
『寒山落木』(巻四) |
大正11年(1922年)12月、阿波野青畝は池内たけし氏を迎えて師走の法隆寺に案内した。 |
今朝からの日和うしなふ時雨かな
『定本 萬 両』 |
奈良に方除(ほうよけ)で仮寓していた私は、ある日東京の先輩池内たけし氏を迎えて師走の法隆寺に案内した。そのころは国鉄しかなかった。汽車をおりて寺までぶらりぶらりと田舎径を歩いているときの小春日和。ふりかえる奈良は勿論。遠くの山が美しくかがやきを見せていた。 やがて門前の句碑「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 子規」を見たり広い伽藍をめぐるうちに時雨が顔に当る。風が出て鳴る風鐸をたけし氏はじっと聞いているが、耳遠い私には興を打たなかったらしい。たけし氏はそのことを文章に書いた。折角よろこんだ美しい日和がこんなに急変することを案内役の私が一番案じていたように思う。若き日の忘れがたい句。 |
明治36年(1903年)8月4日、長塚節は法隆寺を見に行く。 |
八月四日、法隆寺を見に行く、田のほとりに、あらたに梨をうゑ たるを見てよめる あまたゝび來むと我はもふ斑鳩いかるがの苗なる梨のなりもならずも |
明治40年(1907年)、若山牧水は郷里の坪谷から上京の途中で法隆寺を訪れている。 |
雲やゆくわか地やうごく秋真昼鉦も鳴らざる古寺にして 秋真昼ふるき御寺にわれ一人立ちぬあゆみぬ何のにほひぞ
『海の声』 |
昭和5年(1930年)4月8日、北原白秋は法隆寺に遊ぶ。 |
法隆寺にて 四十日にわたる荒涼たる我が満蒙の旅は、寧ろこの法隆 寺を美しく見むためなりしが如し。 日の照りて桜しづけき法隆寺おもほえば遠き旅にありにき 朱砂(すさ)の門春はのどけし案内者(あないしや)の煙管くはへてつい居る見れば 春日向人影映る東院の築地ついぢがすゑに四脚門見ゆ
『夢殿』 |
昭和10年(1935年)、水原秋桜子は法隆寺を訪れている。 |
法隆寺宝蔵の簷にちる櫻
『秋苑』 |
昭和40年(1965年)6月、山口誓子は法隆寺で子規の句碑を見ている。 |
金堂を出た池の畔に、子規の 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 の句碑が立っている。御影石の角柱。かなり高い。 明治二十八年、子規は須磨から東京へ帰る途中、奈良に遊んで、法隆寺にも来た。 柿好きの子規は、茶店に憩うて柿を食べたのだ。「柿くへば」は因果関係めくが、柿を食べたからと云って、それに応えるが如く鐘が鳴ったわけではない。柿を食べたときにたまたま法隆寺の鐘が鳴ったのだ、偶然だが、柿と鐘の音とは因縁づけられている。偶然を必然化している。 碧梧桐はこの句を批評して、何故、「柿食ふて居れば鐘鳴る法隆寺」としなかったかと云ったそうだ。 「柿食ふて居れば鐘鳴る」とは何事。低調極まりない。「柿くへば鐘が鳴るなり」はしゃんとしている。鐘の音が聞えて来るようだ。 大正五年の建立。子規の自筆を拡大したのだ。子規の字は何処で見てもよい。
『句碑をたずねて』(大和路) |