昭和62年(1987年)8月10日、「国道223号」は「日本の道100選」に選定されている。 |
昭和4年(1929年)7月23日、与謝野鉄幹・晶子夫妻は霧島神宮に参詣し、栄之尾温泉に4泊している。 |
霧島の宮に到れば白き雨木綿(ゆふ)のけしきに我が車打つ 天ざかり西にいませば神さびていよよ尊し霧島の宮
『霧島の歌』(其一)
渓渓の湯の霧しろしきりしまは星の生るる境ならまし 山川を右ひだりして行きつきぬ栄の尾の坂の湯の滝のもと
『霧島の歌』(其二) |
大きなるこのしづけさや高千穂の峯の総べたるあまつゆふぐれ |
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南なる開聞岳の暮れゆきて暫くわれは寄りどころなし |
昭和十四年十月六日夕暮、霧島林田温泉着。 天が晴れて、桜島、開聞岳方面まで一眸のうちに入り、鱗雲か長く棚引き、来る道からは高千穂も韓国もまったく晴れていたから、めずらしく豊かな大風景となったのであった」(「南国紀行」より) |
霧島神宮・参拜歩道 御前三時霧島山の大神にまうでむとして眼をあらふ 霧島の神の社にぬかづくとあかとき闇をい往く五人(いつたり)
『のぼり路』 |
今からちょうど130年前、慶応2年(1866年)日本の歴史の大転換期に坂本龍馬と妻おりょうは、薩摩(鹿児島)に訪れています。京都伏見の寺田屋事件(1866年1月23日未明)で幕史に襲われ九死に一生を得た龍馬は、妻おりょうとともに霧島の山深く入り温泉で傷を治しながらその足で霧島山(高千穂)の峯にある天の逆鉾を見ようと妻おりょうと高千穂登山をしています。 姉乙女への手紙によりますと「天の逆鉾」を見て天狗の面に似ていると2人で微笑んだと記されています。下山途中は一面にみやまきりしまが咲きほころび美しい情景であったそうです。またその足で霧島神宮をお参りし、大きな杉の木もあるが御神殿の建物にも奥深いものがあると感じながらここに1泊しそこから霧島の温泉に戻り4月12日鹿児島へ帰っているようです。 坂本龍馬が鹿児島へ訪れた行程は88日間と示され、現在の新婚旅行とも言われています。 このことは龍馬が姉乙女宛へ送ったと言われる手紙から抜粋し要約したものです。
参考文献(京都国立博物館蔵より) |
神聖降臨地(しんせいこりんのち) |
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乾坤定位時(けんこんていいのとき) |
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煌々至霊気(こうこうたるしれいのき) |
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萬世護皇基(ばんせいこうきをまもる) |
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徳富蘇峰 |
「皇室を中心とする国、日本と徳富蘇峰」 明治、大正、昭和にかけての思想家徳富蘇峰は其の思想の中で根幹をなす「皇室中心主義」について「漸く行き着いた安心立命の処」と言い「此を宣揚して死んだら私の生存したる甲斐もある」と感得しえた思想の境地を語ったと云われています。 この詩は昭和27年「卒寿」を迎えた蘇峰の詠詩揮毫で、国体の精華が詠みあげられています。 詩碑は、昭和27年8月22日、照国開運社長中川喜次郎兄弟、並びにその厳父より同社の建造船タンカー「霧島丸」の進水を記念して奉納されました。
霧島神宮 |
当神宮は天祖天照大神(てんそあまてらすおおみかみ)の御神勅を畏み戴きて三種の神器(皇位の御璽(みしるし))を奉持し、高千穂峰に天降りまして皇基を建て給うた肇国の祖神<天孫瓊瓊杵尊>をお祀りしているお社です。旧記によると欽明天皇の御宇(西暦540年)、もとは高千穂峯のほど近く脊門丘(せとお)に社殿が建立されたが、その後たびたび噴火炎上し幾星霜を経て今から500年ほど前現在の社地へ御鎮座になりました。いまの御社殿は第二十一代当主島津吉貴公が正徳5年(1715年)に造営寄進されたもので、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、勅使殿等その配置はまさに輪奐(りんかん)の美をなし、西の日光とも称せられる。特に殿内は漆塗りで二十四孝の絵画、龍柱、床には鴬張りが施されている。明治7年2月「霧島神宮」と社号改定、官幣大社に列格仰せ出され、平成元年5月国の重要文化財の指定を受けております。高千穂峯(標高1,574m)頂上には神代の旧物“天の逆鉾”があり、中岳、新燃岳、韓国岳一帯はつつじ「ミヤマキリシマ」で有名です。 |
昭和29年(1954年)10月20日、水原秋桜子は霧島神宮を訪れている。 |
霧島神宮 高千穂の霧来てひゞびく鵯の声 丹の鳥居紅葉に映えて寂びたまふ |
昭和33年(1958年)2月18日、水原秋桜子は再び霧島神宮に参詣している。 |
十八日、雨。霧島神宮に詣づ。拝殿の傍 へに純白の花あり、野海棠なりときけば 霧に濡れ幣と白しや野海棠
『蓬壺』 |
昭和43年(1968年)、水原秋桜子は三度霧島神宮を訪れる。 |
霧島神宮 杉の芽の層々かこむ霧雫
『殉教』 |