別子銅山開坑300年祭を記念し、近藤廣仲を筆頭世話人として平成2年11月16日この句碑が建立された。 句は別子銅山元旦の厳粛な式の様子を詠んだもので、作者は地元俳人本田三嶺子である。
別子銅山記念館 |
大ノ(おおばく)は、元旦に銅山守護神の大山積神社に注連縄で包み幣を掛け、神輿風にして担がれ、古式により奉納された大きな鉱石のことだそうだ。 |
武蔵野に |
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秋風吹けば故郷に |
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新居の郡の |
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いもをして憶ふ |
正岡子規が、東京根岸の里で當地より送られてきた田芋の美味を愛で故郷を偲んで詠んだもので、柳原極堂がこの歌を深く愛して揮毫した。 子規60年忌を記念し、新居浜極堂會の合田一系本田三嶺子らが極堂揮毫の書をそのまま碑面に彫し、昭和36年9月歌碑を建立した。
別子銅山記念館 |
昭和6年(1931年)、阿部誠一は愛媛県今治市に生まれる。 昭和29年(1954年)、松山商科大学(現:松山大学)経済学科卒業。 昭和35年(1960年)、佐藤忠良に師事。 平成5年(1993年)3月、製錬夫像設置。 |
「精錬夫」とは、砕かれた鉱石を焼き、その焼鉱を一番吹更に二番吹きと「吹床」で吹きわけ、実に2ヶ月間もの時間をかけて、製品の一歩手前の「あらどう」の状態にする仕事に従事していた人たちです。 (生子山の煙突は山根湿式精錬所用のものです。) 作者 阿部誠一 |
子規に俳句を学んで後新傾向の境地を発掘、明朝風の書でも知られた松山の河東碧梧桐が昭和5年来新、別子ラインでこの句が生まれた。 昭和36年は子規の60年祭に当りたまたま碧梧桐来遊30周年にも重なったので、地元の俳句10結社が近藤廣仲翁を句碑建設会会長に頂き、矢野樟坡・原盛雄・合田一系・本田三嶺子らが奔走、同年7月竣工したものである。 |
明治40年(1907年)、川田順は住友総本店に入社。 昭和5年(1930年)、常務理事に就任。 昭和11年(1936年)、住友総本店を退職。 昭和30年(1955年)、別子銅山を訪れる。 |
地中にてはたらくことは |
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慣れながら皆大山祇に |
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礼して這入る |
この銅山(やま)を |
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神とし仰ぎ |
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幾代かも |
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掘りつぎて來し |
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ことの畏(かし)こさ |
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住友吉左衛門友成 |
亜硫酸吐きし煙の無くなりて |
島はよみがへる |
人も草木も |
第十六代 住友吉左衛門 |
別子銅山二百五十年祭にて |
泉幸吉 歌集『途上』より |