2021年山 口

引接寺〜李鴻章道〜
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春帆楼から引接(いんじょう)寺へ。

引接寺と李鴻章道

日清戦争終結のための日清講和のとき、清国全権大使「李鴻章」は引接寺を宿舎とした。会場の(春帆楼)への往復の際、危険を避ける為に使用した道が「李鴻章道」と呼ばれるようになった。

引接寺三門


下関市指定有形文化財(建造物)

引接寺三門

 引接寺は浄土宗寺院。当初は豊前国黒田村(福岡県京都郡みやこ町勝山黒田)にあったと伝わるが、詳細は不明。永禄3年(1560年)、この地の亀山八幡宮の麓に建立され、山号を関亀山(かんきざん)と号す。慶長3年(1598年)、小早川隆景の菩提を弔うため、藤堂佐渡守高虎が現在地に広大な堂宇を建立し引接寺を移した。以後、赤間関の有力町人や長府藩の庇護を受けるとともに、萩藩によって朝鮮通信使の客館としても整備されるなど、寺勢は隆盛を極めた。また、明治28年(1895年)春には日清講和会議のために来日した李鴻章一行の宿舎となり、李鴻章狙撃事件とも相まって、寺名は国際的にも名高い。昭和20年(1945年)6月29日、引接寺の宇堂の大半は戦禍により消失したが、三門はこれを免れ、往時の様子を伝えている。

 この三門は、明和6年(1769年)8月に長府藩九代藩主毛利匡満(まさみつ)が再建したものである。また花崗岩四半敷(しはんじき)の基壇は、慶長期の建立ものと推定されることから、当初の構造形式を踏襲して再建したものと考えられている。

 三門は四脚門(よつあしもん)の形式であり、屋根を本瓦葺きとし、両側に脇門を設け、柱を総円柱とする。門の内部を二手先(ふたてさき)の組物を使い、鏡天井とする稀な例であり、また、龍の彫物は意匠的に優れている。

引接寺


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