明治3年(1870年)、大塚秀之丞は山口県に生まれる。号は楽堂。 明治27年(1894年)10月22日、富山県工芸学校開校。大塚秀之丞は金工科の教師として赴任。 大正14年(1925年)12月24日、福井市の足羽公園に橋本左内銅像建設。大塚楽堂作。 |
『神武天皇』銅像は、氷見郡尚武会の手により、その原形は大塚秀之丞が作り、高岡の喜多万右エ門が鋳造したもので、工費2,424円、台座工事に933円余りを要して、明治41年に建てられた。また、ぞの周辺に松165本、桜314本、紅葉57本、雑木30本を植栽し、和洋花園4箇所を設け郡立公園とした。(大正12年3月、郡制廃止により町立となる) 台座銘板の「永芳」の揮毫は、当時学習院長をつとめていた乃木希典伯爵の手になる。そのため別名「永芳公園」とも称された。 現在は朝日山公園として市民に親しまれている。 |
波は静にお日和つゝき大漁 大漁かまたつゝく |
詩人、野口雨情(本名英吉、茨城県生まれ)は昭和7年4月22日(49歳)、氷見市に遊び、氷見朝日社主催で氷見高等女学校及び南上尋常高等小学校、翌日氷見中学校にてそれぞれ講演をしている。 この詩は、その折に氷見のすぐれた景をうたった中の一篇である。 雨情の足跡をながくとどめるとともに、漁都氷見市の繁栄を願って、この詩碑を建てるものである。 |
清崎俊郎 大正11年東京生まれ。慶應義塾大学卒、俳誌「若葉」主宰、慶應義塾大学講師折口信夫に就き国文学・民俗学を修める一方、高浜虚子・富安風生に師事する。花鳥諷詠・客観写生を究め、その静謐穏和な句風には定評がある。 清崎家は氷見市姿の出身で、この句は、朝日山の滿開の桜の間から、なつかしい父祖の地虻ヶ島を遠望しての詠である。さりげない表現の中に、ふるさとに対する深い想いが汲み取れる。 |
御 製 秋ふかき 夜の海はらに いさり火の ひかりのあまた 連らなれる見ゆ
侍従入江相政謹書 |
昭和33年10月21日第13回國民体育大会に際し、天皇皇后両陛下当市へ行幸啓の折、御宿所誉一山荘において詠まれた御製をながく記念するためこの碑を建立する。 |