ハリスの使命は通商条約の締結であったが、幕府はなかなか交渉に応じず進展しなかった。健康を害しながらも辛抱強く交渉にあたったハリスは、安政4年5月26日、下田奉行との間に締結した「下田協約」(米国側に著しく不利であった日米通貨比率の是正、長崎の追加開港など)を足がかりに安政5年6月19日、ポーハタン号艦上で、日米修好通商条約及び貿易章程の調印に成功した。米国に続いて、日露、日英、日仏通商条約が結ばれた。
通商条約により横浜が開港されると、安政6年5月下田領事館は閉鎖され、ハリスはその使命を終え下田を去った。
なお、境内には米人の墓5基、露人の墓3基が残されている。
下田市教育委員会 |
ハリス記念碑

英文碑面訳
1856年9月4日(安政3年8月6日)初めて日本帝国の一角に領事旗を揚げ、翌年11月23日までこの地に居住し、1858年7月29日、江戸条約によりて日本の門戸を世界に開きたる米国総領事タウンゼント・ハリス記念の為、此の碑を建つ。
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※最後に下田を去りたるは1859年6月30日なり
| 1927年9月4日
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| 建立者 子爵
| 渋沢栄一 |
| 故駐日米国大使 | エドガー・エー・バンクロフト
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| シカゴ市民 | ヘンリー・エム・ウルフ
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★ ★ ★
1856年9月4日(ハリス日記より)
興奮と蚊のため、ひじょうに僅かしか眠れなかった。蚊はたいへん大きい。午前7時に水兵たちが旗竿をたてに上陸した。荒い仕事。はかどらぬ作業。円材が倒れて、横桁が折れる。幸に誰も怪我はない。とうとう艦から加勢をうける。旗竿が立った。水兵たちが、それを廻って輪形をつくる。そして、この日の午後2時半に、この帝国におけるこれまでの「最初の領事旗」を私は掲揚する。厳粛な反省−変化の前兆−疑いもなく新しい時代がはじまる。敢えて問う...日本の真の幸福になるだろうか?...
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昭和10年(1935年)2月26日、与謝野晶子は堂ヶ島から婆裟羅峠を越えて下田の玉泉寺へ。
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辞するとき小雨のなかにひと枝乞ふ下田の寺のべに椿かな
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玉泉寺ハリスの室をば憐むに過ぎて身に泌むあめりかの墓
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昭和11年(1936年)4月22日、種田山頭火は玉泉寺を訪れた。
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4月22日[続] 花時風雨多、まったくその通りの雨風だった。
下田近くになると、まず玉泉寺があった、維新史の第1頁を歩いているようだ。
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昭和37年(1962年)、高野素十は玉泉寺を訪れている。 |
下田、玉泉寺、ハリス日記 二句
蚊のことの九月四日の日記あり
秋の蚊の甚しとも一節に
『芹』 |
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