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本郷4丁目と5丁目の間
「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。
今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片1丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。
また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の3人家族の戸主として、菊坂下通りに住んだのは明治23年(1890年)であった。今も一葉が使った掘抜き井戸が残っている。
一葉の父は則義。一葉の父則義は、夏目漱石の父直克と東京府で同僚だったそうだ。歴史・文学上で則義の名は樋口一葉の父以外に聞いたことがない。
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寝ざめせしよはの枕に音たててなみだもよほす初時雨かな
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樋口夏子(一葉)
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菊坂は夏目漱石の『こころ』にも一度だけ出てくる。
−郷土愛をはぐくむ文化財−
文京区教育委員会
菊坂を下っていくと、旧菊坂町の案内があった。
旧菊坂町(昭和40年までの町名)
この辺一帯に菊畑があった。坂を菊坂といい、坂下を菊坂町と名づけた。
元禄9年(1696年)町屋が開かれ、その後町奉行支配となった。
町内には、振袖火事の火元の本妙寺があった。下通りには、女流作家樋口一葉が住んだ。現在旧居跡には使った掘抜井戸が残っている。
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掘抜井戸

樋口一葉の菊坂旧居跡

樋口一葉の菊坂旧居跡
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文京区本郷4−32・31
一葉は、父の死後母妹と共に、次兄虎之助のもとに身を寄せた。しかし、母と虎之助との折り合いが悪く、明治23年(1890年)9月、3人は旧菊坂町70番地(この路地の菊坂下道に向かって右側)に移ってきた。ここは安藤坂の萩の舎(一葉が14歳から没するまで通った歌塾)に近いところであった。
明治25年(1892年)5月には、この路地の反対側の下道に面したところ(菊坂町69番地)に移った。
ここでの2年11ヶ月(18〜21歳)の一葉は、母と妹の3人家族の戸主として、他人の洗濯や針仕事で生計を立てた。おそらく、ここにある掘り抜き井戸の水を汲んで使ったと思われる。
きびしい生活の中で、萩の舎の歌作、それに必要な古歌や古典の研究をし、上野の図書館にも通い続けた。そして、萩の舎での姉弟子田辺花囿(かほ)の影響で、小説家として立つ決意をかため、半井桃水(なからいとうすい)に小説の手解きを受けた。
明治25年(1892年)3月「武蔵野」創刊号に小説『闇桜』が掲載された。また、小説と共に貴重な日記はここに住んだ明治24年(1891年)4月1日から書き始められている。いわば、ここは一葉文学発祥の地と考えられる。菊坂上通りに、一葉や母のよく通った質屋が今もあり、その土蔵は一葉当時のものである。
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−郷土愛をはぐくむ文化財−
文京区教育委員会