下 町文京区
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碑子夏口樋〜樋口一葉終焉の地〜

石坂を下って春日通りに出る。


春日通りの興陽社の前に一葉樋口夏子の碑があった。


葉一

碑子夏口樋

後は読めないが、文京区教育委員会の説明が書いてある。

樋口一葉終焉の地

(文京区指定史跡 昭和49年11月)

花ははやく咲て散がた
はやかりけり あやにくに
雨風のみつゞきたるに
かぢ町の方上都合ならず
からくして十五円持
参いよいよ転居の事定まる
家は本郷の丸山福山町とて
阿部邸の山にそひてさゝやかなる池
の上にたてたるが有けり
守喜といひしうなぎや
のはなれ座敷成しとて
さのみふるくもあらず 家
賃は月三円也 たかけれ
どもこゝとさだむ
店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すも
わづらハしく心うき事
多ければ得かゝぬ也
五月一日 小雨成しかど
転宅 手伝は伊三郎
を呼ぶ

右一葉女史の明治27年4月28日5月1日の日記より筆跡を写して記念とす

この文学碑は、昭和27年9月7日に建てられた。日記以外の表面の文字と裏面の文字は、平塚らいてうの書。 裏面には、岡田八千代の撰文による一葉の業績の概要と興陽社社長笹田誠一氏の篤志によってこの碑が建てられことが記されている。 昭和27年8月上旬、世話人、岡田八千代、平塚らいてう、幸田文、野田宇太郎 (日記文選定) 、井形卓三 (文京区長) とある。

文京区教育委員会

文京区教育委員会の新しい説明もあった。

 一葉の本名は奈津。なつ、夏子とも称した。明治5年(1872年)東京府内幸町(現・千代田区内幸町)に生まれ、明治29年(1896年)この地で、24年の短い生涯を閉じた。文京区在住は十余年をかぞえる。

 明治9年(1876年)4歳からの5年間は、東京大学赤門前(法真寺隣)の家で恵まれた幼児期を過ごした。

 一葉はこの家を懐かしみ”桜木の宿”と呼んだ。

 父の死後戸主になった一葉は、明治23年(1890年)9月本郷菊坂町(現・本郷4丁目31・32)に母と妹の3人で移り住んだ。作家半井桃水に師事し「文学界」同人と交流のあった時期であり、菊坂の家は一葉文学発祥の地といえる。

 終焉の地ここ丸山福山町に居を移したのは、明治27年(1894年)5月のことである。守喜(もりき)という鰻屋の離れで、家は6畳と4畳半1間、庭には3坪ほどの池があった。この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など珠玉の名作を一気に書き上げ、”奇跡の二年”と呼ばれている。「水の上日記」「水の上」等の日記から丸山福山町での生活を偲ぶことができる。

−郷土愛をはぐくむ文化財−

文京区教育委員会

こんにゃく閻魔へ。

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