下 町文京区
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萩の舎跡〜安藤坂〜

北野神社から安藤坂に出る。


安藤坂に面した文京区立第三中学校の前に「安藤坂」の説明板があった。


安藤坂

春日1丁目と2丁目の境

 この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42年)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。

 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。

 古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。

文京区教育委員会

「萩の舎跡」の説明板があった。


春日1−9−27

 塾主中島歌子(弘化元年〜明治36年・1844〜1903)は、幼名とせといい、日本橋に生まれた。水戸藩士の夫林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、実家の旅人宿池田家にもどり、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。

 御歌所寄人伊藤祐命(すけのぶ)、小出粲(つぶら)の援助で、おもに上、中流層の婦人を教え、門弟1,000余人といわれた。歌集『萩のしづく』(2卷・明治41年刊)などがある。明治36年、歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。

 樋口一葉(明治5年〜明治29年・1872〜96)は、父の知人の紹介で萩の舎に入門した。一時(明治23年・18歳)内弟子として、ここに寄宿したこともある。 佐佐木信綱は、姉弟子の田辺竜子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の3人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。姉弟子の田辺竜子の『藪の鶯』の刊行に刺激されて、近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作『闇桜』を発表(明治25年)して、小説家の道に進んだ。

 近くの北野神社(牛天神・春日1−5−2)境内に中島歌子の歌碑がある。

ゆきのうちに根ざしかためて若竹の
     生ひ出むとしの光をぞ思ふ

−郷土愛をはぐくむ文化財−

文京区教育委員会

安藤坂を上ると、伝通院

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