2005年下 町

伝通院〜「如是我聞」〜

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幸田露伴旧居から淑徳高等学校の脇を通って伝通院へ。


伝通院本堂


伝通院は江戸三十三観音第12番札所。

ちなみに金龍山浅草寺が第1番札所。

本堂の脇に「如是我聞」と書いた中村素堂の碑があった。


如是我聞−かくのごとくわれきけり

「如是我聞」とは読めないが、いい字である。

傳通院のあゆみ

 当山は今から約600年程前の応永22年(1415年)浄土宗第7祖了誉上人が開山したお寺。当時は小石川極楽水の小さな草庵で無量山寿経寺という名で開山された。

 それから200年後慶長7年(1602年)8月29日、家康公の生母お大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定めた。お大の方の法名「傳通院殿」から「傳通院」と呼ばれるようになり、徳川家の庇護のもと、大伽藍が整えられた。

伝通院にはお大の方を始めとして多くの著名人が埋葬されている。

佐藤春夫もその1人である。


佐藤春夫は芥川賞初代選考委員の1人。

 太宰治の「晩年」という作品が芥川賞候補になったが結局落選すると、太宰は短篇「創世記」を書いて佐藤を批判した。

 先日、佐藤先生よりハナシガアルからスグコイという電報がございましたので、お伺い申しますと、お前の「晩年」という短篇集をみんなが芥川賞に推していて、私は照れくさく小田君など長い辛棒の精進に報いるのも悪くないと思ったので、一応おことわりして置いたが、お前ほしいか、というお話であった。

太宰治「創世記」

佐藤春夫は小説「芥川賞」を書いて報復。

佐藤春夫の墓の隣に清河八郎の墓があった。


清河八郎は幕末の勤皇志士で、浪士組の創設者。

 文久3年(1863年)2月5日、鵜殿鳩翁は浪士組参加者を伝通院に召集して諸注意・道中編制を発表した。

 文久3年(1863年)2月8日、再び小石川伝通院に集まった浪士組は江戸を出立して中山道を上洛する。23日、京都壬生村に到着。

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