2008年下 町

浅草寺〜川端龍子筆「龍之図」〜

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都営地下鉄浅草線浅草駅から浅草寺へ。


仲見世は人がいっぱい。

浅草寺も人がいっぱい。

金龍山浅草寺は江戸三十三観音の第1番札所。

ちなみに第2番札所は江北山清水寺

また坂東三十三観音霊場13番札所でもある。

伝法院と号す。坂東順礼所第十三番目なり。天台宗にして、東叡山に属せり。

按ずるに、『東鑑』に、建久三年壬子五月八日、法皇四十九日の御仏事百僧供を修せらるゝと、その条下に、僧衆の中浅草寺よりも三口とあり。又同書に、建長三年辛亥三月六日、浅草寺へ牛の如きもの忽然と出現し奔走す。時に寺僧五十口ばかり食堂に集会する所に、件の恠異(けい)を見て、廿四人立ち所に病痾を受く、七人即座に死するよしを記せり。寺僧五十口ばかりとあるときは、往古も猶大伽藍なる事をしるべし。永禄二年小田原北条家の分限帳に、浅草寺家分四拾貫九百文を附せらるゝよし出でたり。


戦後、天台宗から独立して聖観音宗の総本山となった。

浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像は秘仏である。


 推古天皇36年(628年)3月18日、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。

3月18日の観音示現会(じげんえ)には金龍の舞が披露される。

大化元年(645年)、勝海上人が観音の夢のお告げにより秘仏と定めたという。

昭和20年(1945年)3月10日、本堂は東京大空襲で焼失。

 昭和30年(1956年)に本堂が再建されるまで、淡島堂が浅草寺の仮本堂であった。

 本堂の地下に青銅製の「天水鉢」を埋め本尊をその中へ安置していたので、浅草寺本尊は無事であったそうだ。

現在、「天水鉢」は淡島堂にある。

 浅草寺本堂の天井に堂本印象筆の「天人散華」と川端龍子筆の「龍之図」が描かれている。


川端龍子筆の「龍之図」は昭和31年(1956年)に描かれたものだそうだ。

 浅草寺には多く絵馬が収蔵されている。江戸時代末期から明治初期にかけての著名な画家作品である。博物館などない時代であるから、浅草寺に絵馬を奉納することは一流画家への登竜門であった。

一般公開はしていないが、特別に許可を得て拝見させて頂いた。

その中に「商標感得の図」という油絵があった。


 1645年(正保2年)、初代濱口儀兵衛は紀州から銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業。その商標を考案する時、娘某の夢の中に日頃信仰する浅草観音が現れ、筆をとらせたという。

ヤマサ醤油商標


金竜山の山号と聖観音(しょうかんのん)を意味する梵字なのだそうである。

 ヤマサ醤油の初代儀兵衛の兄が初代吉右衛門で、儀兵衛が製造する醤油を吉右衛門家が販売をしていた。

7代濱口儀兵衛(1820〜1886)は「稲むらの火」の主人公。

 「稲むらの火」は一人の老人が地震後、津波が襲ってくると予感し、収穫した大切な稲むらに火を放ち、多くの村人を救ったという話。昭和12年から昭和22年までの国定教科書・尋常小学校5年生用「小学国語読本巻十」と「初等科国語六」に掲載されたそうだ。

安政元年(1854年)11月5日(12月24日)の南海地震の時のことである。

 明治42年、ヤマサ醤油は出火により生産が止まる。明治38年、9代濱口吉右衛門の弟浜口吉兵衛が分家して醤油製造を始めていたが、大正3年9月、ヒゲタ醤油と合体して、「銚子醤油」を設立。商標を“ヒゲタ”に統一して、濱口吉兵衛は初代社長に就任した。

ヤマサ醤油商標


 9代浜口吉右衛門は溥傑と結婚した嵯峨侯爵家の嵯峨実勝(さねとう)と尚子(ひさこ)の長女浩(ひろ)の祖父濱口容所(ようしょ)である。

 浩(ひろ)の娘慧生(えいせい)は19の時天城山の八丁池(はっちょういけ)で学習院大国文科2年の同級生大久保武道と心中。

(ひろ)の妹は池見啓子亡くなったそうだ。末妹は町田幹子(ことこ)

伝法院へ。

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