正岡子規の句碑


蕣や君いかめしき文學士

東京メトロ日比谷線下谷駅を出ると、言問通りに入谷鬼子母神がある。


 太田蜀山人の「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」で知られている。

降雨やヲ(お)ソレ入谷の冬の梅

『七番日記』(文化11年12月)

入谷鬼子母神に正岡子規の句碑がある。


   漱石来る

(あさがほ)や君いかめしき文學士

入谷から出る朝顔の車哉

柘榴(ざくろ)の木に隠れてしまうので、正面からは写真が撮れない。

 明治26年(1893年)7月19日、子規は「はてしらず」の旅に出る。8月20日、30日の旅を終えて上野に着く。早速帰京の挨拶に内藤鳴雪を訪ねたが、不在。

みちのくの秋ふりすてゝ帰り候

   鳴雪翁来

(あさがほ)に今朝は朝寝の亭主あり

 10日後、

   漱石来る

(あさがほ)や君いかめしき文學士

子規が「朝寝の亭主」、漱石は「いかめしき文學士」である。

 この句はおそらく東北の旅を終へて歸つた時の句であらうと思ふ。子規は元來朝寢坊であつた。それといふのも、夜更かしをして仕事をする癖があつたので自然朝寢をする傾きになつたものであらう。子規の留守中はお母さんも妹さんも、朝早く起きて拭掃除も早く出來る日がつづいたのであるが、子規が歸つて來ると、旅疲れもまじつて忽ち朝寢坊の主人がある家になつた、と云ふことをいつたものである。

 朝顔は立派な花をつけている。漱石は新たに文學士になつてやつて來た、といふだけの句であるあるが、子規も大學につゞけて居さへすれば共に文學士となつたのである。自分から好んでゞはあつたが、併し病氣のためもあつて、大學を中途退學した。「前にも「孑孑の蚊になる頃や何學士」といふ句があるやうに、もとの同窓生が何學士といふ肩書を背負つて世の中に出て來るのを見ると、多少の感慨が無いでもない。殊に親しい交りを呈した漱石が、文學士といふ肩書を持つてけふ改まつて子規のところへ來た、といふやうな感じである。

高浜虚子『子規句解』

 句碑には「朝顔も入谷へ三日里帰り」という句も書かれていたが、誰の句か分からない。

入谷鬼子母神の朝顔まつりは、毎年7月の6〜8日の3日間開かれる。



(あさがお)の下谷せましと咲にけり

『文化句帖』(文化3年7月)

正岡子規の句碑に戻る