当院は新西国三十三ケ所第十二番の霊場として、天平年間(735年)行基菩薩の草創にかかり本尊は同菩薩自作の薬師如来 と十一面観世音ならびに重文(旧国宝)降魔座釋尊を安置す。 孝徳天皇の御宇、豊崎村下三番(現大阪市北区中津)にて行基菩薩火葬の方法を伝授したるを起縁とし、薬師堂建立したるをその初めとす。 延宝9年、相州功雲寺、霊全和尚来住し、初めて曹洞宗籍に入り、仏日山吉祥林東光院と称す。別格地寺院なり。 文化年間、弥天一州禅師、当時大阪十人両替の殿村平右衛門(米平)中原庄兵衛(鴻庄)両開基家と協力、伽藍を再興して今日に至る。 相州小田原道了大権現を勧請し、また隠岐国あごなし地蔵尊を遷座し、阪急沿線西国七福神毘沙門天王を安置す。 前庭後園萩多きを以って通称萩の寺と呼び花時雅客の杖を曵くもの多し。 尚、昭和63年当山授戒会を記念してスリランカ国ダルマ・ガヴェーシ寺院より仏舎利が贈られ、600年ぶりに「こより写経大衣」が新調されるなど話題多し。
東光院 萩の寺 |
霊場萩の寺御本尊薬師瑠璃光如来(行基菩薩御作)の解脱門として、宝暦7年(1757年)6月、全竜禅師によって建立された。総欅造り。大正4年、大阪市北区中津より現在地に移建。阪神淡路大震災により大破せるも平成7年7月に大方善意により修復された。大阪時代この門前には「萩の橋」が掛かり(記念碑は今も中津1丁目に現存する)、大阪城代をはじめ諸大名が参詣されたとゆう。古来より萩の寺の代表的景観として親しまれている。
東光十四世村山廣甫識 |
おもひおもひに坐りこそすれ萩の縁 |
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我のみの菊日和とはゆめ思はじ |
稲畑廣太郎
この度、ここ東光院萩の寺に濱虚子の句碑が建立される事となった。 おもひおもひに坐りこそすれ萩の縁 我のみの菊日和とはゆめ思はじ の2句が一つの石に刻まれるという豪華なものである。 2句目についてはもう御存知の方がほとんごではないかと想われるが、昭和29年11月3日に虚子が文化勲章を受章したときの句である。虚子がこの時、古今のホトトギス同人、誌友の事を思い浮かべた事は想像に難くあないが、同時にこの時一番思った人は他ならぬ子規であった、と解釈する人も多いのである。 不思議な事に、これほどの名句であるのにもかかわらず、この句が句碑に刻まれるのは私の知る限り初めてではないかと想われる。いずれにせよ平成14年の子規没後百年の記念に、子規の事をこれほど思った内容の句が刻まれた句碑が誕生する事は、俳句愛好家のみならず日本の文化にとっても素晴らしい事であると言わざるを得ない。 1句目については、残念ながら虚子の句集で発見する事は出来ない。つまりこの寺に寄贈されたオリジナリティーに溢れる作品で、もちろんこの「萩の寺」の句なのである。恐らく吟行でこの寺に立ち寄り、この美しい萩の姿を詠んだものではあるが、参拝者がこの句碑を見るにつけ、美しい寺庭の萩と重ね合わせて、信心の一助とも成り得るのではないだろうか。ちなみにこの句とは直接関係があるかどうか定かではないが、『年代順虚子俳句全集 第三巻』の大正13年8月18日に詠まれた句として 萩の縁おもひおもひに坐りたる が記録されている。句碑の句と対比して鑑賞するのも良いのではないだろうか。 |
「カラタチ」「同人」を経て自然讃仰・人生味到、郷土敬愛の三是を以て「俳句の外(ほか)に遊ばず」の家風を擁立した宋斤は、昭和9年3月、その敬愛した正岡子規居士卅三回忌を期に嗣子正岡忠三郎氏外300余名の同士臨席のもと、「子規忌寺」として全国的に有名な萩の寺に、大阪最古の子規句碑を建立した。本句は万物に生命の息吹が感じられる結社命名の由来となった師の代表句である。また宋斤は、17年間を費やし、「尼崎市史3巻600頁を刊行、南画界の泰斗直原玉青の俳句の師であったことでも知られる。
霊場山主 識 |
萩の寺東光院 |
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まゐり来て |
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袖ぬらしけり |
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はきのてら |
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はなのにあまる |
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露の恵みに |
ほろほろと石に |
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こぼれぬ萩の露 |
本句は、明治28年10月、居士が日清戦争従軍記者として、大阪を通過されたときの旅吟、「寒山落木」に収められた萩の句12句中の一つで、「僧もなし山門閉じて萩の花」につづいてこの句がある。萩の花の白萩の風情を「萩の花は散った後も美しい。自分もそうありたい。」と讃嘆している。 本句碑は別称「子規忌寺」としての「萩の寺」の象徴として、早春社宋斤主宰の発意により、子規居士卅三回忌を卜して建てられたもの。句碑披(びら)きには、全早春社友・来賓を含め300余名参集の下、当山貫主により居士の精霊が入魂された。式典には子規居士の嗣子正岡忠三郎氏も來臨、令妹律女史からも懇篤な謝電があったという。 なお文字は子規の真跡を寒霞渓産の自然石に移し、名匠渡邊遠湖氏が精進鏤刻したものである。 |
山内になだれ咲く萩のさまが門前からもうかがえる句。 丈餘の萩で、的確に捉えた今を盛りの萩園の情景が、如実に、山門をくぐり、参詣の人々佛を拝し、萩を眺める人々の“きれいだ”と、賛美する声々が、賑やかに聞えてくる。 |
狩くらは |
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大月夜なり |
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寝るとせん |
「狩りくらは」狩りの傍題で狩場のこと、狩りの行われるのはあすで、作者は前夜から狩人小屋に来ているのである。そこから眺めるあすの狩場は、冬の月がこうこうと照っている。あすの好日は疑いなく、そこに展開されるであろう修羅場を思いやるにも心が引きしまる。「寝るとせん」と決意を飲み込むような止めは「狩りくらは大月夜なり」の情の高潮とよく呼応して、狩りくらの壮大な美しさをみごとに描いている。 |
萩むらに仏のごとく句碑坐る | 紫峽 |
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伏流の高き調べや九輪草 | 智壽子 |
小路紫峽は、晩年の濱虚子に「俳句の窮極は信仰である」と教えられ、虚子没後は信心深い阿波野青畝に師事した。 |