2013年長 野

美ヶ原温泉〜源重之の歌碑〜

松本市里山辺の美ヶ原温泉に薬師堂がある。


薬師堂の入口に源重之の歌碑があった。


いづる湯のわくに懸れる白糸はくる人絶えぬものにぞありける

平安の昔、源惟正が信濃の国司として下向の折同行された宮廷歌人源重之は、道中重い眼病を患い、この地で湯治された。

ある日霊夢のお告げにより、ここに薬師如来像を安置祈願されたところ、日ならずして平癒した。爾来入浴の道すがら参詣され、その功徳を称えて詠みのこされたもので、勅撰の『後拾遺和歌集』に見える秀歌。

わきかへりもえてぞおもふうき人は束間のみ湯かふじのけむりか

女流歌人殷富門院大輔は藤原信成の末娘で、後白河天皇の皇女亮子内親王に仕えた侍女。灼熱の恋歌として『夫木和歌集』に残されている名作。

天保6年(1835年)、松本藩5名の有志の建碑。

 源重之は『小倉百人一首』の歌「風をいたみ岩うつ浪のおのれのみ砕けてものを思ふ頃かな」で知られる。

 殷富門院大輔は『小倉百人一首』の歌「見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず」で知られる。

 天明4年(1784年)6月30日、菅江真澄は洗馬を立ち、「筑摩の御湯」に泊まっている。

日くれて湯の原といふ処に宿つきぬ。いはゆる筑摩の御湯となん。「わきかへりもえてぞおもふうき人は束間のみゆか降士のけぶりか」と、殷富門院のながめ給ひしを、修理大夫惟正、このくにのかみにて侍りけるとき、ともにまかりて源重之、「出る温泉のわくにかゝれるしら糸はくる人たへぬものにぞありける」と、後拾遺に見えたりける此歌をはじめに、今はもはら白糸の湯と、世の中にいひながして名におへり。

   しらいとの名にひきながす言の葉に見ぬ世をみゆのもとにこそしれ

「來目路乃橋」

傍らに芭蕉の句碑があった。


旅人と我名呼れん初しくれ

出典は『笈の小文』

 貞亨4年(1687年)10月25日、芭蕉は亡父三十三回忌の法要に参列するために江戸深川を出発する。10月11日、其角亭で送別句会で詠まれた句。

大正5年(1916年)11月、建立。後学雨路臨。

雨路は辰野の矢彦神社神官。

2013年長 野〜に戻る