2006年長 野

梅松寺〜一茶の句碑〜
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小布施の梅松寺が一茶ゆかりの寺だということで、行ってみた。


梅松寺は小布施町の六川にある。

 小林一茶は文化10年六川村を訪れて以来、たびたび当寺を訪れ、句会などを開き、小布施地域の門人の俳諧指導にあたった。

 文化6年(1809年)7月30日、一茶は六川村の知洞上人の事を書いている。

   卅日 晴 六川知洞上人中食 長沼ニ入

『文化五・六年句日記』

 文化10年(1813年)2月22日、一茶は六川村を訪れた。

   廿二 晴 六川ニ入

『七番日記』(文化10年2月)

六川大庄屋寺島夏焦(8代善兵衛)を訪れたのである。

これが初めてというわけではないであろう。

同年4月18日、一茶は渋温泉から六川村を訪れる。

   十八 晴 六川ニ入

『七番日記』(文化10年4月)

同年6月4日、一茶は六川村を訪れている。

   四 晴 六川ニ入 夜大雨

『七番日記』(文化10年6月)

同年閏11月23日、一茶は六川に入る。

   廿三 晴 六川ニ入 大綾在所越後国母去十七日ニ没

『七番日記』(文化10年閏11月)

 文化11年(1814年)2月11日、湯田中から六川の梅松寺へ。

   十一 晴 六川梅松寺

『七番日記』(文化11年2月)

 同年6月2日、一茶は梅松寺の住職知洞と湯田中に入り、9日門人久保田春耕がいる高山村の紫へ、11日には知洞のいる六川村に入る。

   二 晴 知洞ト田中ニ入

   九 晴 紫ニ入

   十一 晴 六川ニ入

『七番日記』(文化11年6月)

 文化12年(1815年)5月10日、湯田中から六川村を訪れる。

   十 晴 六川ニ入

『七番日記』(文化12年5月)

 文化15年(1818年)2月5日、一茶は湯田中に入る。9日、湯本希杖と常楽禅寺に詣で、六川へ。

   五 晴 素玩ト田中ニ入

   九 晴 希杖ト中野常楽禅寺詣
       無相(窓)国師坐禅石山ニ西国卅四番石観音
       六川ニ入

『七番日記』(文化15年2月)

 当寺の住職は当山十九世弘圓和尚で、雅号を独楽坊知洞といい、詩歌をたしなみ、一茶の門人で、俳諧にすぐれていた。

梅松寺の前に一茶の句碑があった。


真丸に芝青ませて夕涼

出典は『七番日記』。文化13年6月の句である。

文化13年(1816年)6月13日、一茶は菅相山梅松寺に入る。


   [十]三 雨 六川入菅相山

   梅松寺納涼

真丸に芝青ませて夕涼

武士に蝿を追する御馬哉

『七番日記』(文化13年6月)

8月24日、再び梅松寺へ。

   [廿]四 晴 梅松寺ニ入

『七番日記』(文化13年8月)

菅相山梅松寺


菅相山梅松寺は真言宗豊山派

明治3年(1870年)、神仏分離で焼失。

住職の話によると、本尊は民家に保存されていて無事であったそうだ。

昭和53年(1978年)、再建。

本堂の前に一茶の句碑があった。


侍に蝿を追する御馬哉

知洞の句碑もあった。


淡雪や片仮名形りの小菜畑

一茶・知洞句碑

侍に蝿を追する御馬哉   一茶

淡雪や片仮名形りの小菜畑   知洞

 文化10年以降、晩年に至るまで頻繁に小布施を訪れた一茶は、梅松寺住職の知洞や椎谷藩六川大庄屋寺島夏焦等多数との句会を行い、小布施文化の興隆に寄与した。

 知洞は梅松寺十九世住職で、独楽坊ともいい、一茶と交遊深く、一茶はこの梅松寺に度々泊って句作ににふけった。天保5年甲午10月22日、此処に卒す。

小布施町教育委員会

   独楽坊

寝所見る程は卯花明りかな

法の山蛇もうき世を捨衣


 「法(のり)」は寺の境内。「捨衣(すてごろも)」は、蛇のぬけがら。「蛇の衣(きぬ)」は夏の季語。

梅松寺の隣りにおぶせ六川天満宮があった。

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