2006年長 野

おぶせ六川天満宮〜一茶の句碑〜
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梅松寺の隣りにおぶせ六川天満宮があった。


おぶせ六川天満宮


おぶせ六川天満宮 縁起(由来)

 大永2年(1522年)、梅松寺開山頼山上人が太宰府天満宮より御分神を勧請され、境内の一隅に鎮守社として創建されました。

 天明8年(1788年)、栄雅上人が神像を調元、併せて社殿の修築を行いました。文政3年(1820年)には知洞上人が万人講を組織し、同5年には境内で草木市・子供相撲などを催し、近郷近在より多くの人々が出て賑わったと伝えられています。

 この頃小林一茶が梅松寺を拠点に活躍し、俳諧が盛んになり、数多くの奉額も残っています。しかし、惜しいことに風化のため判読は困難です。

 明治3年(1870年)、神仏分離令により、梅松寺より欅原神社へ合祀され、天満宮が天神社と改称されました。

 平成4年(1992年)、天満宮奉賛会が結成され、小布施町皇大神社の祭礼(安市)の吉日(1月15日)に合格祈願祭に併せて絵馬奉納を行い、地域の繁栄を祈り、文化的伝統行事として発展することを願っています。

おぶせ六川天満宮奉賛会

おぶせ六川天満宮の境内に一茶の句碑があった。


心の字に水も流れて梅の花

文政10年(1827年)7月、六川天神宮に奉納された句。

 梅松寺の住職の話によると、当時六川天神宮に心字池があったそうだ。小布施には一茶の句碑が30近くあるが、句を詠んだ場所が特定されるのはここだけだという。

句碑の字は金子兜太の筆による。

文政十亥七月、六川天神宮奉納二句

馬士も烏帽子着にけり梅の花

心の字に水も流れて梅の花

『文政九・十年句帖写』(文政10年)

文政10年(1827年)11月19日、一茶は持病の中風が昂じ、没す。

長野電鉄小布施駅前へ。

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