一茶ゆかりの地


一茶ゆかりの里一茶館

 山田温泉「藤井荘」から県道66号豊野南志賀公園線を下り、左折して県道351号山田温泉線に入り、高井橋で松川を渡る。


芭蕉の句碑があった。

高山村役場の近くに「一茶ゆかりの里一茶館」がある。


一茶の遺墨が展示されている。

扇面


墨染の蝶がとぶ也秋の風

人も一茶

 文政9年(1826年)、一茶64歳の時の句。出典は『文政九・十年句帖写』。『文政句帖』(文政5年8月)には「墨染の蝶もとぶ也秋の風」とある。

『父の終焉日記』(文化3〜4年頃)


 享和元年4月、一茶39才の春、たまたま帰省中であった一茶が父の発病にあい、その臨終、初七日を迎えるまでの出来事を書き綴った日記である。寛政12年刊の天地庵我泉の歳旦帳の裏面に書かれたこの草稿は、明治の世になってから束末露香によって『父の終焉日記』と名付けられ、大正11年、露香の校訂本が荻原井泉水によって刊行された。

久保田春耕に宛てた書簡(文政10年6月15日付)


 御安清奉賀。されば私は丸やけに而是迄参り候。此人田中へ参り候。私参候迄御とめ可被下候。右申入度、かしく。

 壬(閏)六月十五日節

土蔵住居して

やけ土のほかりほかりや蚤さは(わ)

 紫畊大人

一茶

 6月1日の柏原の大火で焼け出された後、六川に行って、そこで書いたものと言われている。数多い書簡の中で最も有名なものである。

一茶をとりまく人々の作品も展示されていた。

宮本虎杖


既望(いざよい)はいざよふうちのながめかな

 埴科郡戸倉町の人。当時江戸で高名な宗匠であった加舎白雄の高弟で、更科、埴科を中心に北信濃の俳諧を育て上げた功労者である。一茶も江戸と柏原を往復する際、何度か虎杖を訪ねて風交を求めたようである。

古田月船

浅草のかね襟に入るあはせかな

 茨城県利根郡布川の人。裕福な文化人で一茶を厚くもてなした。一茶の布川における宿泊数は289泊と常総随一であるが、そのほとんどは月船宅であろう。

変わった屋根の建物である。


一茶逗留の離れ家


 離れ家と呼ぶこの茅ぶきの小さな建物は、当地紫の久保田春耕の先代兎圍(とえん)が18世紀末の天明から寛政期頃に建てた隠居所であり、春耕は、この建物を一茶に提供した。

 一茶はここに136日も逗留して、高山村や近在の門人たちを精力的に指導した。

一茶ゆかりの里一茶館」には6つの句碑があった。

扇面の句が句碑になっている。




墨染の蝶がとぶ也秋の風

人も一茶

文政5年



義仲寺へ急候はつ時雨

 寛政7年10月12日、当時京都にいた一茶が、芭蕉の墓のある近江義仲寺の芭蕉忌時雨会に参加した折の句で、『しぐれ会』(重厚編、寛政7年刊)に収められている。



苦の娑婆やさくらが咲ばさいた迚

文政2年(1819年)春、一茶57歳の句。

『八番日記』には「苦の娑婆や花が開けばひらくとて」とある。



さをしかやえひしてなめるけさの霜

出典は『八番日記』。

文政2年(1819年)9月、一茶57歳の句。



高井のや只一本の花の雲

出典は『八番日記』。

文政4年(1821年)3月、一茶59歳の句。



にはの蝶子が這へばとびはへばとぶ

出典は『浅黄空』。

『浅黄空』の原本は「一茶ゆかりの里一茶館」に伝わっているそうだ。

記念に扇子を買った。

秋風や磁石にあてる古郷山

出典は『八番日記』。

文政2年(1819年)9月、一茶57歳の句。

 『おらが春』では「高井野の高みに上りて」の前書きがつけられており、高山村荒井原の山ノ神あたりでの作と推定される。「磁石にあてる」が印象的な望郷の句である。

高山中学校に句碑があるそうだ。

松川渓谷温泉へ。

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