ここは、仙台城の大手から城下を東西に貫く幹線大町と南町国分町を通る奥州街道の交差する十字路に当たり、古くから「芭蕉の辻」と呼ばれてきた。
この名称の由来は、かつてここに芭蕉樹があったがためと言い、また繁華な場所ゆえの「場所の辻」が訛ったものだとし、更に藩祖政宗が重く用いた芭蕉という虚無僧が一時居住していたためとも言われ、定かにはわからない。
しかし、正式には「札の辻」であって、それはこの辻の西、大町三丁目の道路の中央に幕府の指令による忠孝・切支丹・捨馬など制札が掲げられていたのに因る。この位置からも察せられるように町割りの基点となり、諸方への里程の基準ともなった。 |
松尾芭蕉とは関係なかった。
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元禄9年(1696年)、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどり、「芭蕉の辻」に触れている。 |
芭蕉が辻 大町札の辻也。
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天明6年(1786年)8月18日、菅江真澄は「芭蕉の辻」に出た。 |
「ぬさとめぬ玉田よこ野の秋風にみたるゝ露をみかく月がけ」と聞へしが、ばせをの辻といふなる処に出て、市中を来はてゝ、へだてゝながるゝを、青葉川といひ又の名を翠羽川といへり。
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嘉永5年(1852年)3月18日、吉田松陰は多賀城から仙台に入り、「芭蕉の辻」に出た。 |
原町を過ぎ、横ぎりて大街(おおどおり)の芭蕉の衢(つじ)に出づ。是れ即ち中山道なり、街市を貫くこと南北長さ二里許り。
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道標があった。
