『奥の細道』 〜東北〜
〜壺碑〜
東北自動車道泉ICから国道4号仙台バイパスに入り、泉大橋の手前で左折し県道35号泉塩釜線で多賀城に向かう。
三陸自動車道を過ぎると、右手に多賀城碑がある。
多賀城碑覆堂(おおいどう)
覆堂は明治8年に建てられたそうだ。
覆堂の中に多賀城碑がある。
多賀城碑は重要文化財である。
碑文の前半は多賀城の位置を京や国の境からの距離で示している。
多賀城
| 去京一千五百里
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| 去蝦夷國界一百二十里
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| 去常陸國界四百十二里
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| 去下野國界二百七十四里
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| 去靺鞨國界三千里
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後半は多賀城が神亀元年(724年)に設置されたこと、天平宝字6年(762年)藤原恵美朝臣朝狩(ふじわらのえみのあそんあさかり)によって改修されたことが記され、最後に天平宝字6年12月1日と碑が建てられた年月日が刻まれている。※「狩」は獣偏+「葛」
此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
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軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
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也天平寳字六年歳次壬寅参議東海東山
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節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
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将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也
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(※「狩」は獣偏に「葛」)
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天平寳字六年十二月一日
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多賀城碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、西行や源頼朝にも歌われた歌枕である。
陸奥の奥ゆかしくぞおもほゆる壷の碑そとの濱風
前大僧正慈円、ふみにてはおもふほどの事も申しつくしがたきよし、申しつかはして侍りける返事に
陸奥のいはでしのぶはえぞしらぬふみつくしてよ壺の石ぶみ
元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)、芭蕉は「壺碑」を訪れた。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は壺の碑を訪れている。