2023年京 都

泉湧寺〜清少納言歌碑〜
indexにもどる

JR奈良線東福寺駅下車。

京都市東山区泉涌寺山内町に泉湧寺という寺がある。

総 門


泉湧寺

 真言宗泉涌寺派の総本山で、皇室とのかかわりが深く、「御寺(みてら)」として親しまれている。

 寺伝によれば、平安時代に弘法大師によって営まれた草庵を起こりとし、法輪寺(後に仙遊寺と改称)と名付けられた後、建保6年(1218年)には宋(中国)から帰朝した月輪(がちりん)大師・俊ジョウに寄進され、大伽藍が整えられた。その際、境内に泉が涌き出たことにちなんで泉涌寺と改められた。 仁治3年(1242年)の四条天皇をはじめ、歴代の多くの天皇の葬儀が行われ、寺内に御陵が営まれており、皇室の香華(こうげ)院(菩提所)として厚い崇敬を受けてきた。

 広い境内には、運慶の作と伝えられる釈迦仏、阿弥陀仏、弥勒仏の三世仏を安置する仏殿(重要文化財)のほか、釈尊の仏牙(ぶつげ)(歯)を祀る舎利殿、開山堂、御所の建物を移築した御座所、霊明殿など数多くの伽藍が建ち並んでいる。

 寺宝として月輪大師筆の「泉涌寺勧縁疏」(国宝)、楊貴妃観音堂に安置される聖観音像(重要文化財)など多数の貴重な文化財を所蔵する。また、謡曲「舎利」の舞台としても有名である。

 山内の塔頭には七福神が祀られており、毎年成人の日に行われる七福神巡りは多くの参拝者でにぎわう。

京都市

総門から大門まで遠かった。

大 門


 この門は、泉涌寺の山号である「東山(とうぜん)の額を掲げているので東山門とも呼ばれている。額の字は、独自の書風を確立したことで知られる中国南宋の張即之筆であると伝える。門を入ると、東には仏殿、舎利殿、本坊の主要建物が直線的に並び、宋の寺院を手本とした創建時の堂宇の配置を見ることができる。

 国の重要文化財に指定されている。

 門は高く堂々とした本瓦葺きの四脚門で、もとは京都御所の内裏の門であった。慶長時代に徳川家康が後水尾天皇の即位と共に御所を再建したが、その時、旧門の部材を拝領して移築した門と考えられ、桃山時代の建築である。

 豪壮で華やかな桃山時代の雰囲気は、蟇股(かえるまた)の唐獅子、龍、麒麟、獏などの霊獣の彫刻によっても偲ぶことができる。

御寺泉湧寺

伽藍拝観は500円。

楊貴妃観音堂


 唐の玄宗皇帝の妃、楊太真は、楊貴妃の名で知られる絶世の美女であり、二人の愛情の深さは白楽天の「長恨歌」にたたえられている。しかし、その美貌のためにかえって、玄宗の失政と安禄山の乱をよび、唐の至徳元年(756年)、妃は乱によって命を落とした。安禄山が討たれた後、皇帝玄宗は亡き妃の面影を偲ぶため、香木によってその等身坐像にかたどった聖観音像を造ったと伝えられる。

 建長7年(1255年)に中国に渡った湛海(たんかい)は、その像を持ち帰り、泉涌寺に安置したという。以来100年ごとに開扉されてきた秘仏であったが、昭和31年(1956年)から厨子の扉は参拝者のため開かれることになった。

 仏体は寄木造(よせぎづくり)で、手に極楽の花、宝相華(ほうぞうげ)を持ち、宝冠は宝相華唐草の透彫(すかしぼり)、その下に観音の冠を重ねている。観音の慈悲と楊貴妃の美貌が渾然一体となった仏像で、口もとや目もとの曲線は、得も言われぬ尊容を漂わせている。

京都市

仏殿(重要文化財)


 仏殿は、寛文8年(1668年)に四代将軍徳川家綱公により再建された、一重もこし付入母屋造り本瓦葺き唐様建築の代表作であり、違垂木や釘・土を使わない工法に特色をみることができる。

 泉涌寺創建当初の伽藍は応仁の乱でほとんどが消失し、現在の伽藍は江戸期に整備とれたものである。

 本尊は、鎌倉時代の代表的な仏師「運慶」作の「三世尊佛」と呼ばれ、左の阿弥陀如来は現在、中央の釈迦如来は過去、右の弥勒如来は未来の守護尊として、三世にわたって人類の平安と幸福を祈念している。天井の雲竜図、壁画の飛天図、裏堂の白衣観音図は狩野探幽により当堂建立の翌年に奉納された。

 また当堂では毎年3月14日〜16日の間、国内随一の「大涅槃図」(縦16メートル、横8メートル重さ百貫)を奉掲する。作者は江戸期の浄土宗の画僧「明誉上人」。

御寺泉湧寺

泉涌寺水屋形


 泉涌寺の名の由来となった清泉を覆う屋形で、寛文8年(1668年)に再建された。屋根は入母屋造、こけら葺で、正面は桟唐戸で上部に欄間があり、屋根には軒唐破風を付けた優雅な意匠の建物である。内部は別所如閑筆の蟠龍図のある鏡天井となっている。京都府指定文化財。

 この地は月輪山のふもとにあり、緑に包まれた仙境といった趣がある。平安時代に左大臣藤原緒継(をつぐ)が神修上人に帰依して法輪寺を建立し、その後、寺は仙遊寺と改称された。泉涌寺の開山俊ジョウ律師が仙遊寺の地を寄進され、中国宋を手本とした伽藍の造営を志した際、ここに清泉が湧き出たので寺名を泉涌寺と改めたと伝えられる。清泉は絶えることなく湧き続け、開山律師の仏教興隆への思いが、今も伝わって来る。

御寺泉湧寺

水屋形の左手に清少納言歌碑があった。


夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ

小倉百人一首第62番。『後拾遺和歌集』収録の歌である。

昭和49年(1974年)11月、平安博物館建立。

清少納言歌碑


 清少納言、姓は清原、名は不明。歌人として著名な從五位上肥後守・清原元輔の娘。若くして橘則光と結婚し、則長の母となったが、後に離婚。正暦元年(990年)頃、一條天皇の中宮(のち皇后)・藤原定子に少納言と言ふ女房名で出仕し、崩御に至るまで約7年間、その側近に仕へ、華やかな宮廷生活を送った。その間、攝津守・藤原棟世と再婚し、小馬命婦らを産んだ。后の崩後、皇后をめぐる多彩な宮廷生活の思ひ出を主軸とし、これを随想を加へた『枕草子』を綴り、世界文学史に不朽の名を遺した。また別に家集として『清少納言集』がある。

 晩年、月輪の此のあたりに隠棲し、朝夕皇后定子の鳥辺野陵を拜しながら生涯を終へた。

 歿年は万寿2年(1025年)頃とと推定されている。

舎利殿


 舎利殿は釈迦様の遺骨である「仏舎利」を納める貴重な霊殿で、内裏の御殿を移築し、上層部を付け足したことにわり重層に変えたものである。

 泉涌寺の仏舎利は、月輪大師の弟子湛海宗師が安貞2年(1228年)宋より請来した三国伝来の佛牙舎利と呼ばれ、印度・兜卒天・中国に伝わった不可思議な舎利で、釈迦の歯にあたり、説法される口に有ることから特に尊い舎利だと言われている。

 牙舎利は舎利塔という建物の形になった容器の納められ、左右には月蓋(がつがい)長者と韋駄天の像を従え安置されている。

 舎利殿の天井には、狩野山雪により勇猛な鳴き竜(赤竜)が描かれ、肢体を大きくくねらせながら飛翔する姿、逆打つうろこは悪魔退散の激しい怒りを表現しており、日光の薬師堂と共にさ東西の鳴き竜として有名である。堂内に立って手をたたくと竜が鳴いているように聞こえるという。

 平成20年、当舎利殿にて今上陛下御即位20年を奉祝し、薪能「舎利」が奉納され、御寺泉涌寺を護る会の名誉総裁秋篠宮殿下もご鑑賞になられました。

御寺泉湧寺

善能寺へ。

2023年京 都〜に戻る