2022年京 都

二条城〜本丸庭園
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重要文化財本丸櫓門


寛永3年(1626年)頃の建築で、本丸西櫓門(焼失)とともに本丸を防御する重要な門である。戦時には木橋を落して敵が渡れないようにし、さらに銅板で覆われた扉を閉めて火器に備えた。本丸には井戸や米蔵もあるので、籠城戦の備えもできている。内側の土塀に見える穴は、鉄砲で攻撃するためのもので、まさに要塞の構えとなっている。また、寛永行幸の際に天皇は2回天守に登られたが、その時の木橋は2階橋で、天皇は二の丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれた。天守へ登られた天皇は、この時の後水尾天皇が唯一といわれている。その2階橋の一部は、昭和5年(1930年)頃まで残っていたが、その後解体され、部材の多くは土蔵で保管されている。

本丸庭園


明治29年(1896年)に明治天皇の指示により作られた庭園である。天皇は右側に見える本丸御殿の最上階から指示を出され、それは植栽に及ぶものだったとの記録がある。この場所には、かつて2つの建物が建てられていた。寛永3年(1626年)、3代将軍徳川家光が建てた本丸御殿と、それが焼失した後、幕末に15代将軍慶喜が建てた建物である。慶喜が建てた建物は明治14年(1881年)頃に取り壊され、明治26〜27年(1893〜94)に京都御所の北東部にあった桂宮御殿の主要部分が移築された。これが現在の本丸御殿である。移築時には、いったん庭が作られているが、明治天皇の指示によって、すぐに改造された。

本丸御殿は保存修理工事中。

天守閣跡


二条城の天守閣は、寛永3年(1626年)、伏見城から移築されたと考えられている。屋根は5重あるが、内部は地上5階、地下1階の大きさで、屋根には瓦型の銅板が葺かれていたようである。寛永行幸の時、後水尾天皇は2回天守閣へ登られ、ここが、天皇が登った唯一の天守閣と言われている。寛延3年(1750年)、落雷により焼失し、再建されることなく現在に至っている。天守台の大きさは、石垣の高さ約18m、広さ約427uである。なお、築城当初の二条城には、別の場所に天守閣があった。今の清流園のあたりである。もとは大和郡山城にあったものと考えられており、寛永年間に城域を拡張するに際し、淀城へ移築された。

天守閣跡から見下ろす。


まるで紅葉。


天守閣跡


移築された旧二条城の石垣


永禄12年(1569年)、織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を守るために築いた城の石垣である。元亀4年(1573年)、織田信長と対立した足利義昭は追放され、城は解体されて一部は安土城の建設に使われるなどしました。解体された城は一般的に旧二条城と呼ばれますが学術的な確証はない。京都市営地下鉄烏丸線建設事前発掘調査で、京都御苑の西から遺跡が発見され、調査後に烏丸下立売付近のものが二条城と京都御苑に移築保存された。築城当時、日本で活動していたキリスト教宣教師ルイス・フロイスの記録『日本史』には‘‘石材は不足していたので代わりに石仏などを粉砕したものが利用された”と記されていつが、それは実際にこの石垣で確認されています。

内 濠


清流園へ。

香雲亭


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