芭蕉の句碑

『奥の細道』東 北


蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと

 鳴子温泉から国道47号(北羽前街道)を西に行くと、鳴子峡の鳴子入口がある。


去年、菊咲一華(きくざきいちげ)が咲いているのを見つけた。

今年は、まだ咲いていなかった。

鳴子峡の鳴子入口から「尿前(しとまえ)の関跡」に行く。

「尿前の関跡」に芭蕉の句碑がある。


芭蕉翁」と書いてある。

裏面には「蚤虱馬の尿する枕もと 明和五戊子六月十二日尿前連中」と刻まれている。



 明和5年は西暦1768年。芭蕉が尿前の関を越えたのは元禄2年(1689年)。それから79年後に建てられた句碑である。

松島の雄島に鯨丈の句碑がある。

『諸国翁墳記』に「枕塚 陸奥鳴子村在 周谷・鯨丈建」とある。

 大正11年(1922年)12月2日、大町桂月は芭蕉の句碑を見ている。

 昔源義経奥州落の時、出羽より来つて、こゝにほつと一と息つけり。芭蕉翁は玉造川を遡つて、出羽に行けり。鳴子より十数町の川上に、尿前の関の旧址あり。もと『蚤虱馬の尿する枕元』といふ芭蕉翁の句碑ありき。関守の零落せるに際し、この句碑を五円に買ひて、遠く我庭に移したる富豪ありしが、前町長高橋氏之を慨き関址にありてこそ句碑の価値あれ、他の処に移しては何等の価値なしとて、幾度も往いて諭し、終に訴ふるぞとまで威しければ、富豪漸く悟り、百円を付けて戻し来れり。

「会津の山水」(鳴子温泉)

 昭和3年(1928年)7月28日、荻原井泉水は芭蕉の句碑を見ている。

本道が坂にかかる所から杉の木の下の十薬の咲く暗い小径をだらだらとおりると、尿前である。まず碑が目についた。

「やあ、わざわざ草を刈っておいて下さったね」

佐藤氏は独語した、碑の表は

            俵坊 鯨丈
   芭 蕉 翁
            主立 周谷

裏に

  蚤虱馬の尿する枕もと   尿前連中

      明和五戊子六月十二日   建

『随筆芭蕉』(分水嶺を越ゆ)

 昭和33年(1958年)7月、加藤楸邨は芭蕉の句碑を見ている。

 句碑は芭蕉の

   蚤虱馬の尿する枕もと

で、明和五年に建てられたもの、碑の裏に「尿前連中」とある。これはいうまでもなく堺田の封人の家でよまれたものである。『奥の細道』には

  封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれてよしなき山中に逗留す

とあってこの句がある。


 昭和40年(1965年)、山口誓子は「尿前の関跡」の句碑を訪ねている。

 荒雄川に注ぐ大谷川を渡って、二折れ。右へ下りる道がある。深い雪を踏んで下りて行った左手に尿前の関跡があった。木の鳥居が立っているが、上の笠木が欠けてない。散々のていたらく。裏に小祠があって、手前に芭蕉の句碑がある。ゆがんだ自然石だ。句は陰に彫ってある。

   蚤虱馬の尿する枕もと

 この句は、曽良の日記によれば、堺田の宿で作られた。

   (中 略)

 明和五年、この句碑を尿前の連中が建てた。いささか場違いである。

『句碑をたずねて』(奥の細道)

 「蚤虱馬の尿する枕もと」は「封人(ほうじん)の家」で詠まれたものであるから、当然「封人の家」にも句碑がある。

 「尿前の関跡」は数年前にも立ち寄ったことがあるので、去年は「尿前の関跡」を素通りして、「封人の家」に向かった。

今年は「封人の家」を素通りして、瀬見温泉へ。

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