『奥の細道』 〜東北〜


〜雄 島〜

朝よさを誰まつしまぞ片心

 東北自動車道仙台南ICから仙台南部道路に入る。仙台若林JCで仙台東部道路、さらに三陸道を行く。

松島海岸ICで県道8号仙台松島線に入り、波打浜公園へ。


波打浜公園の駐車場に車を停め、朱塗り橋を渡って雄島(御島)へ。

雄島(御島)は百人一首の歌でも知られている歌枕である。

見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず

殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)

 文明19年(1487年)、道興准后は松島へ。

奥の細道、松本、もろをか、あかぬま、西行がへりなどいふ所々をうち過ぎて、松島に到りぬ。浦々島々の風景辞も及びがたし。かねて聞き侍りしは物の数にても侍らず。皆々帰りかね侍りければ、

   この浦のみるめにあかて松島や惜しまぬ人もなき名残かな


 寛文2年(1661年)8月、西山宗因は松島にやってきた。

 さて、松しまのたゝずまひ、やうかはりめづらかにて、いたりふかきくまぐまみどころおほし。其夜はあまのとま屋にやどる。

   いのちこそうれしくみつれ松島の松の思はむよはひながらも

   松島の夕を秋のゆふべかな

   松島やをじまはしみて月の舟

「松島一見記」

若き芭蕉の句がある。


  江戸
武蔵野の月の若ばへ(え)や松嶌種(だね)
   桃青


 天和2年(1682年)、大淀三千風『松島眺望集』撰。

○過し天和に此うらの眺望集を撰祿して、櫻にひけらしぬれば、世人吾に表徳して松島軒とよばれしもおもはゆや。げに此島の群景は田胡浦の下にたゝむ事かたく、箱崎は松島の下をこそ思うらめ、偖眺望別集に記し侍れば、當浦の事は除し。


 元禄2年(1689年)5月9日(新暦6月25日)、芭蕉は早朝鹽竈神社に詣でた後、塩釜から船出して昼に松島に着いた。瑞巌寺に詣でてから雄島を訪れる。

   一 九日

 快晴。辰ノ尅、塩竈明神ヲ拝。帰テ出船。千賀ノ浦・籬島・都島等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。茶ナド呑テ瑞岩寺詣、不残見物。開山、法身和尚(真壁平四良)。中興、雲居。法身ノ最明寺殿被宿岩屈(窟)有。無相禅屈(窟)ト額有。ソレヨリ雄島(所ニハ御島ト書)所ゝヲ見ル(とミ山モ見ユル)。御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山(一山一寧)ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。

『曽良随行日記』

雄島(御島)に「芭蕉翁松島吟並序」の碑があった。


抑ことふりにたれと、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥す。 東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島々の數を盡して、欹(そばだつ)ものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波に匍匐(はらばふ)。 あるは二重にかさなり、三重に疊みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり。兒孫愛すかことし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのつからためたるかことし。其氣色ヨウ(※穴冠の下に「目」)然として、美人の顏を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山すみのなせるわさにや。造化の天工、いつれの人か筆をふるひ詞を盡さむ。

朝夜さを誰まつしまそ片心

寛政元年(1789年)10月、塩竈の俳人白坂文之建立。

瑞巌寺に『奥の細道』の同文を刻む「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑がある。

 天明7年(1787年)、白坂文之は野田の玉川に能因法師の歌碑を建立している。

 雄島が磯は地つゞきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の庵、閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。  松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曽良 予は口をとぢて眠らんとしていねられず。

芭蕉と曽良の句碑がある。


朝よさを誰まつしまぞ片心
   芭蕉

松島や鶴に身をかれほとゝぎす
   曽良

左が芭蕉の句碑。

(たが)まつしま」は掛詞。

出典は『桃舐(ももねぶり)集』

『奥の細道』に芭蕉の句はない。

   名所雜

あさよさを誰まつしまの片こゝろ   芭蕉

翁、執心のあまり常に申されし、名所のみ雜の句有たき事也。十七字のうちに季を入、哥枕を用ていさゝか心ざしをのべがたしと、鼻紙のはしにかゝれし句を、むなしくすてがたくこゝにとゞなるべし。


 元禄2年(1689年)の春、「おくのほそ道」の旅に出る直前に詠まれたものだそうだ。

 『泊船集』には「是は路通かもも月ふりに翁の句なりと書出しぬ」とある。

 『蕉翁句集』には「此句いつのとしともしらす旅行前にやと此所に記」とある。

 『芭蕉句選』に「朝寒も誰松しまの片こゝろ」、「あさよさを誰まつしまの片心」の2句が収録されている。

   朝よさを誰松嶋そ片こゝろ
   イニ朝寒を
蓼云、此句ハ松嶋行脚おもひたち給へる比の句なるへし。名所に雑の格なり。「朝寒」句意分らす


 『風羅袖日記』は「元禄元辰」とする。

 寛保元年(1741年)、雲裡坊は仙台に住む。山本白英の尽力で冬至庵を結ぶ。

 延享4年(1747年)10月12日、冬至菴連は芭蕉の句碑を建立。

 碑陰に仙台冬至菴連「山本白英・酒井東鯉・永野里童・蔭山芦白・山田丈芝・三浦等水・飯田狐才・田川阿川・奥田可耕」の名があるそうだ。

『名録帖』(可都里)に「東鯉肴町二丁目境屋半助」とある。

東鯉の句

関の名や越ても薫る冬牡丹

『宗祇戻』(風光撰)

一ツ宛千島にわたれ夏の月


『諸国翁墳記』に「朝松塚 奥州松島雄島在 仙臺 可耕建」とある。

可耕の句

くらかりの峠ハはれてしくれ

『蕉門花伝授』

 文化5年(1808年)、曽良の句碑を建立。遠藤曰人筆。

 碑面に「信州諏訪産曽良同郷素檗建之」とあるようだから、諏訪の俳人素檗が曽良の百回忌を記念して遠藤日人に依頼して建てたものらしい。

文化5年(1808年)5月25日、『曽良句碑建立句集』刊。

『奥の枝折』(柳條編)に松島として芭蕉の句が2句収録されている。

島々や千々に碎けて夏の海

松島や水を衣裝の夏と月

俳諧一葉集』には「考證」として2句が収録されている。

   松島

島々や千々にくだきて夏の海

松しまや夏を衣裳の水と月

雄島から間近に見える鯨島と亀島


2つ合わせて双子島と呼ばれるそうだ。

  新庄
 浪のへりに月や婬じて二子嶋
   風流


雄島から見る松島湾


 元禄9年(1696年)、天野桃隣は松島を訪れ、句を詠んでいる。

 雄嶋、是も橋有。船よりも陸よりもわたる。長老坂手前に、西行戻。をじまの内に、坐禅堂・石灯籠南村宗仙寄進

   ○松嶋や鶴に身をかれ郭公
   曽良

   ○松嶋や五月に来ても秋の暮
   桃隣

   ○松嶋や嶋をならべて夏の海
   助叟


呂丸も松島で句を詠んでいる。

   松嶋にて

松しまや物調(ととのひ)しけふの月


 享保元年(1716年)5月、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚。雄島を訪れている。

西に大主の茶屋細道につきて、是なん雄島、橋あり、塔あり、碑あまた洞中にあり。天下の壮観言語を絶するの風景なり。

   松島や唖にたゝよふ夏の雲


 元文3年(1738年)4月、山崎北華は松島を訪れ、夢で象潟に遊ぶ。

命の幸にして。松島の月今日既に見つ。是より象潟如何あらんや。翁の松島は笑ふが如く。象潟は恨むるに似たりと書き給ひし事。思ひ出られて。心に懸りて臥しぬ。 松島鹽竈に草臥も忘れて。醉るが如く眠るが如く象潟に到る。翁の口眞似(まね)するに似たれど。西行の形見の櫻。今を盛りと咲亂れ。南は鳥の海遙に遠く。西はむやむやの關となん。東は秋田の通路。海北に堤連なりたり。江の中六里餘。風景又有るべきに非す。斯の所にも遊び來にけるもの哉と思へば。我神心も我神心にあらぬやうに思はれ。南華の蝶と成て遊べる我も又蝶にやと。

   象がたや我蝶々の遊び所


 元文3年(1738年)4月、田中千梅は小船で松島に渡る。

江上に小舩さして松嶋に渡ル其間弐里余


 元文5年(1740年)、榎本馬州は『奥の細道』の跡を辿る旅で松島を訪れている。

來れりや得たりと頭を叩いて、左右に延びあがり、うしろに居直りなど、見漏らさじとする程に、さまざま替りゆく島の姿、又幾島のあらはれ出づるにぞ、あれやあれやと手を拍つてうめけば、御僧は狂人にやと船頭にあやしめられぬ。

   たましいか鳥か千鳥の夕涼


 寛保2年(1742年)4月13日、大島蓼太は奥の細道行脚に出る。10月6日、江戸に戻る。

 延享4年(1747年)、横田柳几は武藤白尼と陸奥を行脚し、松島を訪れている。

松島は笑ふかことしといへる翁の詞も眼前なれは

涼しさの浪に笑はぬ島もなし
   柳几

   浮巣にかよふ島の手配
   白尼


 寛延4年(1751年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で雄島で句を詠んでいる。

   雄 島

人のおちまに住や落葉庵


 宝暦5年(1755年)5月11日、南嶺庵梅至は雄島から舟に乗る。

明れハ五月十一日雄嶌より舩に乗半眼にして八方を望あらゆる嶋の大小松の形大和ならぬ風流画とも具には顕しかたかるへくそ其嶋

の影波間に浸し潮と見るもの皆青し

涼しさや嶋漕登乗落ろし


 宝暦13年(1763年)3月、蝶夢は越中の蕉露を伴い木曽路を経て松島を遊覧する。

所の長、潮月の許より下知して、千賀の浦はよりともづな解て出るは、まだ午にならざりけり。折から糠の雨けぶりて風なく、海の面、綾を敷しごとく、いと静にして櫓の音のみ。凡、島々の松が枝は、雨に翠の色をそへて江の色にゑいず。漕まはし漕まはりて雄島の磯にさし寄るに、名残おしく蓑うちまとひて、竹の浦・小松崎・梅が浦などかぞへがたし。


 明和2年(1765年)、大島蓼太は仙台を訪れ、嘉定庵を設立。

大島蓼太の句碑があった。


朝きりや跡より恋の千松しま

明和5年(1768年)、建立。

俵坊鯨丈句碑


松しまやみつよつくれて鐘氷る

明和5年(1768年)、鯨丈は尿前の関跡に芭蕉の句碑を建立。

 明和6年(1769年)4月、蝶羅は嵐亭と共に松島を訪れ句を詠んでいる。

   松 嶋

巻上て誰もつ島の青すだれ
   嵐亭

松しまやうぐひすも音を入かねし
   蝶羅


 明和7年(1770年)、加藤暁台は『奥の細道』の跡を辿り、松島で句を詠んでいる。

   みちのくにて

陸奥殿の凉台なり千松島


 明和8年(1771年)7月25日、諸九尼は念願の松島に赴く。

 廿日ごろより、つゞきて心地よかりけれ、おくの細道へ立ち侍らんと思ふに、くすしもゆるしきこへ(え)ければ、廿五日といふに、竹もてあめる駕にたすけのせられて、松嶌に赴侍る。海にわたしたる橋をわたり、雄島の磯に着てみれ、げにも千嶋の風景、いかで眼も及ぬべしとも覚えず、はかなき世にも、ながらへぬれこそと嬉しく、年月の思ひも、はるばる来ぬる旅路のうさも、けふはミな忘れ侍りぬ。


 安永2年(1773年)8月15日、加舎白雄は松島を訪れた。16日は雨。

   十六日、日もすがら夜もすがらふりしくまゝに

いさよふやしらず雄島の雨の月


   松嶋良夜

松明や松しまの月夜半過ぬ


   望の夜の清光、夜半に京極黄門の
   和歌をうたふ客あり。

松ふくや松しまの月夜半過(き)ぬ

   既望ハ雨ふりけるに
いさよふやしらす雄嶋の雨の月


 天明2年(1782年)、官鼠は仙台を訪れて陸奥国分寺に「艸鞋塚」建立している。

雄島(御島)に官鼠の句碑がある。


松嶋や茸狩舟の真帆片帆

鶴とびてむれるや雪の千松しま

天明2年(1782年)、建立。

 天明2年(1782年)、田上菊舎は千賀の浦から舟で松島に遊ぶ。

   千賀の浦より舟に遊びて

松嶌や小春ひと日の漕たらず


 寛政元年(1789年)、小林一茶も松島の句を詠んでいる。

松島やほたるが為の一里塚

松島や三ッ四ッほめて月を又

『寛政句帖』

 寛政3年(1791年)5月24日、鶴田卓池は松島を訪れる。

 いづれの人か筆をふるひ、言葉をつくさんといへる松島の絶景、詠なかばならずして月うみにうつれば、江上に宿をかりて又千島にむかふ。


 寛政6年(1796年)7月、葛三は春鴻と共に奥羽行脚に出る。

松に霜松島に日のうかみけり


座禅堂


「雲居禅師の別室の跡」である。

 明治26年(1893年)7月30日、正岡子規は雄嶋に遊び、坐禅堂を見て句を詠んでいる。

 三十日雄嶋に遊ぶ。橋を渡りて細径ぐるりとまはれば石碑ひしひしと並んで木立の如し。名高き坐禅堂はこれにやと思ふに傍に恠(あや)しき家は何やらん。

すゞしさを裸にしたり坐禅堂


 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、松島を訪れた。

 船は瑞巌寺の下に着く、松島は是で二度目、松島元より扶桑有數の奇景にちがひないが、何故か二度共さやうに強くはわが心を惹かず、芭蕉が此處と並稱したる出羽の象潟は、水涸れて田圃となつて居ても、その事に却つてわが幻想を助くるが如く、しめやかにあはれに眺めあかした、


 昭和3年(1928年)7月25日、荻原井泉水は雄島で芭蕉と曽良の句碑を見ている。

ここは、眺望には好い所で、その前に近い双子島を自分のもののように置き並べて、婆さんが茶を売っていた。そこを下りると、ほど近く

   芭蕉翁   朝よさを誰まつしまぞ片心

という背の高い(六尺程)短冊形の碑が立っている。右に「勢州桑名雲裡房門人」、左に「延享四丁卯十月十二日建之」とある。その碑と並んで、一、二尺すさって――宛も、師に扈従しつつ、師の影を踏まずという風にして――曾良の碑がある。

松島や
信州諏訪産

鶴に身をかれほとゝぎす
   曾良

同郷 素檗建之

石の高さも師のものより少し小さくし、ただし幅はやや広く、がっしりとした形である。裏に建立の年代があるのだろうが、青苔と土とにうずもれて、読みえない。

『随筆芭蕉』(松島と石の巻)

 昭和40年(1965年)、山口誓子は松島を訪れている。

   松島

飛び立つて十字絣の海の鴨

大景の中飛ぶ鴨の粉微塵

船窓に貼りつく雪の大きな花

『一隅』

西行戻しの松へ。

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