2021年高 知

吉田茂先生像〜高知龍馬空港〜
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「はりまや橋」から空港連絡バスで高知龍馬空港へ。

高知龍馬空港に吉田茂先生像があった。


吉田茂先生像

郷土が生んだ不出生の宰相

 吉田茂先生の不滅の偉勲を千古に顕彰するため故山に銅像建立の議おこるや県内外から賛同の志きゆうぜんとして集まり、こと郷土躍進の象徴の地高知空港緑の広場に本像成る。ことに撰文は日本芸術院長有光二郎先生、揮毫は文化功労者手島右卿先生、ともに郷土出身の先遠に賜わり、修景に高知鷹城ライオンズクラブの篤志による植栽あり。万緑蒼々の清流汪々、光生景仰の心結集するにふさわしく、長しえに世界人類の平和と郷土の発展を祈念し工を竣る。

 明治11年(1878年)9月22日、吉田茂は高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(現:東京都千代田区)に生まれる。

 明治14年(1881年)8月、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)吉田健三の養子となる。

 明治39年(1906年)9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。同期入省者には首席で合格した広田弘毅がいた。

 昭和20年(1945年)4月、近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。

 昭和22年(1947年)4月、総選挙で実父竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補して初当選。

 昭和31年(1956年)5月11日、高知城に板垣退助先生像を再建除幕。題字は吉田茂の書。

 昭和42年(1967年)10月20日、神奈川県大磯の私邸で永眠。89歳。

 昭和42年(1967年)10月31日、戦後初の国葬が日本武道館で行われた。

 昭和56年(1981年)9月、日本武道館に吉田茂銅像建立。

 昭和59年(1984年)7月、吉田茂先生像建立。

 平成15年(2003年)11月15日、高知龍馬空港の愛称を使用。

 平成24年(2012年)9月8日、高知龍馬空港緑の広場から移設。

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