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廣田弘毅先生は1878年2月14日、徳平、タケの長男として福岡市鍛冶町(現中央区天神3丁目)に生れる。幼名を丈太郎といい、のち自ら改めて弘毅とす。修猷館、一高、東大に学び、柔道を玄洋社明道館にて練磨す。学を卒えて外務省に入り、山座圓次郎氏の薫陶を受く。東亜の平和維持に心を砕き、特に韓国、中国、ソ連との関係改善に努力す。外務省欧米局長、駐オランダ公使、駐ソ連大使を歴任、1933年国際連盟脱退後の難局を受けて斎藤内閣の外務大臣となる。 1936年、2・26事件突發直後、内外の情勢緊迫せるなかに内閣総理大臣の大命を拝し、死力を盡して粛軍の徹底を期す。さらに近衛内閣の外務大臣として入閣、軍部の暴走阻止と日中戦争の早期和平を図るが果たさず第一線を退く。太平洋戦争終結に当たり、重臣としてソ連大使マリクと和平を図るも及ばず終戦を迎う。 然るに、極東軍事裁判は先生が文官なるにもかかわらず軍と通謀、大陸、南方への侵略を企図したとして絞首刑を宣す。而して当たらず。全国民、この悲報を意外とす。先生、毅然として判決を受け、一言の弁解もなく従容として巣鴨刑場の露と消ゆ。時に1948年12月23日午前零時34分なり。郷党この不当を悲しみ、不運を嘆く。ここに同志相図り像を刻んで、その遺徳を永遠に顕彰せんと之を建つ。
後学進藤一馬撰并書 |
